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『万引き家族』を観て

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 ブログの方も、もっとコンスタントに書こうとは思っているのですが…。時間が経つのは早く気がつくと季節はめぐりめぐって蝉の鳴き声が耳につく季節となっていました。
 この間、書きたいことは多々あったのですが、文字にする間もなく時間ばかりが過ぎてしまいました。前期の若者たちとの対話においても、その話題は例年のごとくではありましたが、やはり社会の格差の問題等は、関心も高く何度か話題にすることがありました。特に、7月以降この格差社会等の問題を取り上げる度に、その頃観た是枝裕和監督の『万引き家族』や、同時期に毎年、若者たちを連れて訪れる『フィールドワークことぶき』での学びとも相成って、様々なことを考えることになりました。
 映画を観た感想やら、フィールドワークを通じて考えたことなどを絡めて、現代日本社会における格差問題を改めて少し考えてみたいと思います。

 まずは、是枝監督の『万引き家族』を観て考えたことから書きます。この映画は、海外の映画コンペで最高賞もとり内外で評価が高い映画です。大ざっぱなテーマというかストーリーは、現代日本の格差社会の中で持たぬ者たちが生き抜くために、疑似的な家族(共同体)を作り、暮らしを守っていく話です。この映画が問いかけている問題としては、当然、現代日本社会固有の問題をはじめとして、近現代の社会、特に近代資本主義社会が抱える普遍的な問題も含まれています。
 この映画から想起される様々な思いは、相当に詳細かつ多岐にわたってしまうので、それを1つ1つずつ書いているとたいへんな量になってしまうことが予想されます。なので、根底というか大本となっている構造的な部分の話を中心にしていきたいと思います。この物語の舞台となっているであろう現代の日本社会の特徴を言えば、やはり、1990年代後半以降、さらなる経済的な発展を目論み強力に遂行された新自由主義的な政策を忘れることはできません。既に、グローバル化やデフレの影響から、社会の格差化が進んでいた日本社会において、新自由主義的な政策の推進は、より一層の格差化を進めたことは言うまでもありません。
 新自由主義政策における格差化の原因は、「競争の自由」であるとか「選択の自由」であるとかと主張される言葉からも分かるように、資本主義発展の柱である「新市場開拓」ならびに「技術革新」の強化であったのは、改めて言うまでもありません。こうした言葉とセットとなっている「自己責任」という言葉からも直ぐに分かるように、こうした政策の推進が資本主義の中心的な性格である「個体化」を招くことも、改めて言う必要もないと思います。簡単な言葉で言えば、社会の分裂化を進めるということであり、人間個人においてもその精神の分裂化を進めるということになる訳です。
 つまり、避けることのできない社会の分裂化、言い換えれば、格差化、人々の精神の分裂化は今後も拡大していくことは自明であると思われます。そうした日本社会において、人々はどのように自衛というか対抗していこうとしているのでしょうか。発展においては、「競争の自由」であるとか、「選択の自由」であるとか言われてはいますが、持たぬ者(多くの国民)にとっては、下層への競争はあっても選択の自由など存在せず、選びようなどない状況なのです。そんな状況の中で、国民たちは生き延びるために様々な自衛策を講じているのです。ここで注意が必要なことは、経済的な活動に対する自衛だけでなく、分裂していく精神への自衛も含まれているということです。
 それらの具体的な実践というか、市民生活のあり様が、この映画で描かれている疑似家族であったり、児童虐待の回避であったり、組織の中にいる人間とフリーの状態にいる人間との対比だったりするのです。
 しかしながら、この映画の鋭いところは、こうした分裂社会化傾向については、当事者である市民たちのみならず、違う意味ではありますが、統治者側も認識をしそうした傾向が過度に進むことを危惧しているのを伝えることを忘れてはいません。その象徴的な言葉が「絆(きずな)」という言葉の強調です。こうした言葉が統治者側から意識的に広められたのは記憶に新しいと思います。統治者側にとって社会の分裂化は、資本主義の発展を目論めば目論むほど進むわけなので、それを危惧することはマッチポンプ的ではありますが…。彼らにとって社会の分裂化が進むことで大いに困ることは、やはり、国家の統合が崩れていくことです。これは何も新しい話ではなく、近代の国家において発展と国家統合は両輪的な関係で、統治者側は様々な道具を使い、分裂していく国民の国家意識を絶えず再統合していこうとするのです。その道具の中心的理念がナショナリズムであったり、道具としてのオリンピックであったり万博であったりするのです。

 さて、この映画の中では、分裂化社会に対する対抗策として、市民の側では、疑似家族をはじめとする地域などの共同体(包摂力)の再構築が表現され、統治者側は、そうした市民の側の対抗策が法外に及ぶため嫌い(統治できなくなる)、「絆」という上からの再統合を促すことを明瞭に表現しています。
 こうした、この映画でもそのモチーフとなっている市民の側が分裂化社会に対抗する手法をより明確に認識させたのが、観賞と時期を同じく実施した「フィールドワークことぶき」だったのです。毎年、大学生らを連れ訪れる横浜寿町でのフィールドワークにおいて、現場でのレクチャーをお願いしている寿での生活者の1人である石井淳一さんが、寿の町の特徴を表す表現として、「日雇い労働者が集まる」「無宿者が集まる」「依存症者が集まる」「高齢者が集まる」「福祉対象者が集まる」「多国籍の子どもたちが集まる」等と、寿の町が「集まる」町であることを強調しました。この指摘はとても大事だと思います。そうです、社会の構造上、推進されている現代日本社会の分裂化に抗う方法の1つは、個人(市民)が集まることだからです(個体化に対して、群体化といういう言い方もあるかもしれませんが…)。ただ、ここでその違いを意識する必要がありますが、統治者側も国家の分裂化を防ぐために人々を集めるということは、その手法として重要視していることが分かります。ただ、その集まった人々の統合の意識が統治者側にとってのカウンターとなると面倒なので、あくまでも、集まった結果のエネルギーの開放方向を貨幣の獲得(消費文化化)の方向に向かう(経済的な発展)ようにすることは忘れてはいません。

 少し大ざっぱなまとめとはなりますが、現代日本社会の構造的な問題からくる分裂化に対抗するには、貨幣の獲得を優先するような経済性を孕まない共同体(居場所)の確保(再構築/運動)が、その方法の1つになるであろうことは間違いないと思われます。

 ということで、映画のみならず、それが絵画であれ、音楽であれ、何かで表現をするということは、制作者の意識に関わらず、そこには何らかの政治性が含まれていることに気づく必要があるということです(是枝監督の距離感は正しいと思われる)。この点についての話は、また長くなるので、別の機会にしたいと思います。それはアクション映画であれ、SF映画であれ同様です。それでは、また。(^^)/

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