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社会の変容

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 最近、考えることがあります。この話の前提は、その昔あった社会、とりあえず日本的な社会を想定します。日本的社会と言っても、100年や200年ほど前の社会ではありません。例えば、縄文の頃の日本社会をイメージします。そもそも、縄文の頃の日本社会と言っても、国家の概念もなければ何か記録が残っているわけでもありません。そういう意味で言えば、考古学的な資料などをもととした断片的な材料による想像的な話でしかありませんが、少し与太話を続けてみたいと思います。

 これからする話、昔から空想科学小説などにあるありきたりな話のようにも思えますが、ともかく書いてみることにします。ここ最近、メディアなどで紹介される地方や地域発の試みなどを見ていると、昔からある空想科学小説的な話もあながち荒唐無稽な話でもないと思うようになってきたのです。さて、その空想科学的な話とは、『猿の惑星』に代表されるような人間社会というか、歴史や文明は繰り返しているという話です。こうした話のミソは、往々にして主人公が、タイムスリップなどをした結果、過去だと思っていた所が、実は未来であったとかいう点です。そして、核戦争などによって文明などがリセットされ、一からやり直しているというわけです。
 では、何が僕をそう思わせるのでしょうか。最近というか、最新の世界、特に経済的な視点が強くなってしまいますが、欧米や日本が、一応、近現代における主たる経済システムである近代資本主義が高度に発展した地域であると仮定します。その結果、世界の経済政策は、グローバル化であるとか、新自由主義的な傾向を強めました。すると、強力に推し進められた資本主義的な政策は、より一層の社会や人間精神の個体化を進め、社会の中に格差や貧困・雇用の流動化などを生み出しました。1980年代以降、世界各地で、こうした流れに抗い奪われた権利などを回復するために、地域共同体の回復やその自己決定権や自治権を回復するための運動が起こりました。近年、日本においても、多分にマッチポンプ的ではありますが、高度経済成長等によって分断細分化されてしまった地方の共同体が、地産地消などを掲げ、地域における持続的な経済サイクルの回復や新たな文化資本の蓄積などに取り組み出しています。
 また、発展した資本主義によって確実に国民における経済格差などは広がり、本来、国民国家が積極的に保証しなくてはいけない国民の基本的人権や社会権や生存権が脅かされだしており、公的なセクターによる所得の再分配等の必要性などが指摘されるようになりました。そうした試みや傾向は日本だけではありませんが、総じて、新しい資本主義的な動きと位置づけています。これらの試みには共通した要素があります。それは、地域共同体の再構築であること、貨幣的な価値だけでなく貨幣では獲得が難しい社会・文化資本等の蓄積と同時にそうしたものを交換することによって(平等)、自分たちの暮らしやイノチを保証する社会を目指していること。そして、自分のことは自分で決めるという、自己決定権(自由)の確保などという点です。さて、こうした社会のことを過去の表現から言えば、社会主義的、もっと進めば共産主義的な社会であるということになり、かのマルクス先生が言った通り、高度に発展をした資本主義は徐々に社会主義に移行するということになるわけです。各国とも、そうした傾向を社会主義的とは言わずに、新しい資本主義的ものだと表現するのは不思議でなりませんが…。ともかく、僕の目から見たら、先進国と言われている多くの国は、呼称は様々ですが、確実にかつ否応なしに社会主義化しているように見えます。

 おそらく、さらなる資本主義的な経済発展を望み、より一層強力な多様化や選択の自由化を進めたとすれば、否応なしに社会、いや世界の分裂化は進み、格差・貧困は広がり固定化され、そして当然のように、市民というか国民は、自分たちのイノチを確保するための自己防衛のために共同体化の再構築をはじめとする社会主義的な試みに力を入れることになっていくような気がします。まぁ、そうした事態を避けようとして、公的なお金を地域に再分配したとしても、それもまた社会主義的な政策であると言わざるを得ないと思います。つまり、どっちみち、資本主義的な社会が発展すると、社会は社会主義化せざるを得ないということです。

 自然の成り行きでは、変移をするであろう社会主義的というか共産主義的な社会、形式的には実現していた時代が、日本にもありました。それが縄文時代です。縄文時代の人々の暮らし、断片的な資料を見るかぎり、それゃ、パソコンも4Kテレビもエアコンもありませんが、ある意味で豊かで平和な暮らしであったように思えます。弥生時代のように、地域間の争いなどもなく、いくつかの地域集団が棲み分けをし、必要なものなどを物々交換などしながら平和に暮らしていたのではないかと推測されます。ということで、では、必然というか自動的というか、原始共産社会と呼ばれるものにでも戻れと主張するわけではありません。僕が懸念というか心配しているのは、今後社会は、AIの導入などが推進され、ほっぽっておいても否応なしに社会主義化すると思われるのですが、おそらく社会が自由で平等となることを嫌う勢力が台頭してくるのではないかということです。
 過去においては、そうした勢力が周到な手口を使い戦争という方法によって、全てを一端リセットし、再領土化(再市場化)してきました。しかしながら、今度こうした事態となった場合、地域などを限定した、それも通常兵器のみによる戦争にはならず、核爆弾を使用した全面戦争となり、地球そのものが荒野に戻り、社会も発展した形で社会主義社会となるのではなく、人間の文明・文化が後退した形で、今一度、原始共産社会のようになるのではないかと危惧するわけです。
 そうした社会の変貌も、プロセスは違いますが、選択肢としてはありうる社会の発展形態の1つなのでしょうか…。僕の希望としては、ソフトランディングでお願いしたいと思うのですが、私たちの住む国では、もういつでもハードランディングに参加できるような準備が整ってしまっています。今後、どちらの道を選ぶのか、僕からすれば国民の意思次第な状況になっていると思うのですが、現状は…。(^^;)

 追記
 もう少し丁寧に言えば、社会の個体化が進むと、否応なしに下方への平等化が進むということですね。結果として、市民は、物質的なものを獲得することが第一主義であるような生活は維持できなくなり、貨幣では換算できないような精神的なものの豊かさを優先する主義へと変化せざるを得なくなるということです。ようは、生き方(イノチ・自由・自律・平等など)とか、本当の豊かさとは何かを問い直すことになると思います。

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