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居場所カフェシンポ

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 先日、ずっと注目をしている学校内における居場所カフェに関するシンポジウムがあったので話を聴きに行ってきました。記憶が新しいうちに感想を書き留めておくことにします。

 まず、大前提としてこうした試みはたいへん興味深く僕たちが行ってきた運動とも意味的には親和性も高く、どんどんと広がってほしいと思っています。ということで、当日の会場での対話から触発されたことも含めて、感想的なものをツラツラと書き連ねていこうかと思います。

1.戦後日本における学校ならびに教育の環境
 このような日本における教育だとか、学校に関することを考えるとき、その前提として日本の特に戦後の教育、なかでも公的な教育の環境について再確認しておく必要があります。それはどうしてかというと、教育、中でも公教育はその時々の社会の体制や政権のあり方から強い影響を受けるからです。例えば、戦前の日本における軍事的な教育のようにです。だとすれば、戦後の日本やアメリカの教育はご存知のように民主主義国家であるはずなので、民主主義的な教育を行うことがその目標になるはずです。
 そこで注意が必要なことは、確かに、戦後の日本やアメリカの教育は民主主義的な国家の国民育成をその目的の1つとして展開されましたが、後年では民主主義の質そのものが大きく変化をしてしまいました。質の変化に対して多分に影響を与えているのが、戦後の民主主義国家を支えた資本主義という仕組みです。少し丁寧に見れば、資本主義そのものが、金融商品の取り扱いなどを中心とした金融資本主義に変化をしたことが教育に与える影響についても考慮する必要もあります。しかし、戦後の特に日本の公教育においては、今も昔も近代資本主義的な価値観の啓蒙を土台として展開されてきたことは間違いありません。あえてアメリカなどとの違いを言うのであれば、憲法9条などによって非軍事による平和主義が明確にされていることでしょうか。
 戦後日本の公教育の特徴の1つを明確にすれば、それは資本主義的な価値観の定着とそうした社会で有用な人材の育成ということになります。その中心となる価値観は、貨幣獲得への欲望の正統化と善き消費者の育成です。こうした戦後日本の公教育のあり方はある意味で成功したと言えるでしょう。その証左としては、学校信仰のような学歴社会の定着であり、先進諸国屈指の消費社会の実現です。

 このように否応なしに戦後日本の教育に影響を与えたであろう資本主義の性格として、きちんと知っておかなくてはいけないことは、その推進の原動力は「新市場の開拓」と「技術革新」であるということです。特に、前者の「新市場の開拓」については、その未開拓の市場が広く残っている時代はよかったですが、有限的な市場の限界に達してからは、新市場を開拓するには、市場を細分化(または、リセットして再領土化)していくしかなくなったわけです。この状況を社会学的に表現すると、社会の個体化が進むということなります。社会の個体化が進むと、そこでは、様々な現象が起きます。多くの方も経験しているかとは思いますが、その昔はあった地域における包摂的な共同体の崩壊などはそのよい例です。社会の個体化が進むとその影響は、社会システムや価値観の変化を進めるだけでなく、人間の精神にも影響を与えることになります。その代表的な例が精神の疎外化です。統合失調症などの増加には、こうした要因が背景にあるとも言われています。

2.国家的な教育・学校が持つ性格
 ということで、少し荒っぽい言い方にはなりますが、そもそも、教育とか学校とかが、国家とか社会的な構造から完全に独立していないかぎりは(原則的には不可能)、上述したような価値観や技術を次世代の人間たちに身につけさせるものであることは否定しようがありません。特に、公教育がこうした役割を担わなければ、その存在の意義そのものが問われる事態となるわけです。簡単に言って、現在の教育や学校は、ある意味で正常に機能しているがゆえに、子どもたちの精神の分裂や個体化を促進していると言わざるを得ません。ただ、こうした子どもたちの精神の分裂化や存在の個体化は、一方で国家としては困るものでもあります。このような状態が行きすぎると、そもそもの国家としての統合が崩れてしまうからです。なので、教育・学校だけではありませんが、各現場では、ナショナルなものであるとか、疑似共同体などを使って、急激な分裂の防止や再統合の動きをも並列的行うようになります。
 ともあれ、結果として言えることの1つは、今の教育、特に現場である学校は、オートマチックに分裂・個体化が進む者を生みだしていると同時に、そうした状況が進む社会に適応できる者の選別をする場となっているのです。こうした状況は、外部から冷静に見れば是正しなくてはならないものだと気づくかもしれませんが、既にこのような価値観の刷り込みは何世代にもわたり行われているので、学校などの外部にいる者たちも学校化された社会の中で自身もそうした意識を再生産し続けているので、変革の必要性に多くの者は気づくことがないのです。

3.現代社会における学校の状況
 これらの背景をもとにして、学校現場の状況を見直すと、直ぐに2つのことが分かります。1つは、今の学校とかになじめない子どもは、人間的には健全であり健康で、意図的に形成された資本主義的な社会発展を前提(優先)とした教育システム(刷り込み)には嫌悪感を感じ、自己の安全保障の担保のために少々距離を置いているのではないかと考えられること。そして、もう1つ気づくことは、前述した者とは逆に、強度の適応化によって一層の個体化(孤独化)を望む者の出現ではないでしょうか。どちらにしても、こと学校においては、自らがこうした子どもたちを生みだしているのですから、今後、こうした状況の子どもたちの数は増加しても減ることはないと思われます。ある意味でマッチポンプ的ですが、学校のみならず社会全体のこうした状況の拡大は体制側からしたら予想の範疇なのかもしれません。
 学校教育における従来の試みとしての疑似共同体づくりや、部活や道徳教育の強化などの再領土化(再コード化)の試みは、必要不可欠なサブシステムである可能性は大きい言わざるを得ません。しかしながら、強度に進むコード化の中において、体制の側から見たら不適応とされる人間は、そのコード化装置の機能強化がはかられればられるほど、その数を増やすと思われます。ゆえに、自分たちの行っていることの正統性を強化するために、一度不適応となった者でも、もとのレールに戻す、戻れるようにするための再回収の装置の強化に体制側は一層乗り出すことが予想というか、既に、あの手この手で着手しているのです。ただ、まだより有効な方法を見いだすまではいってはいないと思われます。それは、そうしたことを考える、例えば教師などをはじめとする体制側の多くの者は、十分に適応した者たちなので、不適応者を元に戻すような方法はなかなか思いつかないのです。
 しかし、こうした時の補完的な方法を彼らはよく知っています。義憤を感じた在野の者たちの自主性に援助などし試行させ、工夫させその方法が有効であれば、様々な手法を使い、自分たちの方法の1つとして取り込むのです。そこまでの流れは想定済みだと言えるのかもしれません。

4.運動として問われること
 まずは、そこで私のような活動の目的というか理念的なことが問われるわけなのです。その問いのポイントの1つは、活動の目的の1つが、現体制への適応支援なのかどうかということと、現社会的価値観の再生産なのかそれともオルタナティブとしての価値観の変革を促すものなのかということです。少し日和った言い方をすれば、折り合いのつくところで適応しつつ(生きることを担保しつつ)、価値観のオルタナティブを模索する試みという言い方もありはします。今回のシンポの学校図書室等で居場所カフェの実践を行っている方々とはそうした理念・目的論は議論をしていないので、どちらの方向性を持たれているのか分からない関係上、ここからは会場での発言などだけから触発された点を勝手に述べていきます。
 一言つけ加えておきますが、当然のように、私などの活動は、適応・再適応支援ではありませんし、むしろ、価値観の変革を促すのが目的です。私たちの運動の理念や方法についてお知りになりたい方は、以前書いた『居場所づくりの原動力』(松籟社、2011年)や『沖縄平和学習論』(榕樹書林、2014年)等を読んでいただき、機会があれば私が行っているオルタナティブ教育論の授業などを受けていただければ幸いです。

 結論的なことを先回りして言うと、現場では、いろいろな意味で私たちが経験したことと同様なことが起きているのが分かります。いくつか紹介してみましょう。その多くが教員側からなどの視点からということになるでしょうか。例えば、学校内におけるこのような試みに対して、教員側の受け取り方は2通りです。1つは、距離を置く者のたち。その多くの場合に想像される意識は、会場での話にあったように、カフェを目的として登校してくる生徒の増加に伴い、本来の自分たちの本義である授業を通しての学びの喜び等の保証が不十分であることを意識すると同時に、学校の中で自分たちが保証できない学びを突きつけられることに対する拒否感。そして、もう1つは、自分たちができない学びの保証であることを自覚した上で、再回収装置(サブシステム)として学校全体の機能アップ(学校の評価アップ)を考え積極的に活用して(取り込んで)いこうとする意識。後者の意識は、協力的な意識として管理職等に多いような気がします。
 そして校内のカフェなどの場では、私が言うところのディアローグ的な対話が起きていることです。ただ、この点についてはこうした場を作れば誰しもがこのような対話をできるようになるのかというと、中心となっている人のセンス、もしくは支援者トレーニング(スタッフ養成などの課題)をしたかどうかという点において差異はあります。

 最後に
 では最後に、こうした実践運動が引き起こすものについて少し考えてみます。
 実践をしている方々と議論をしたわけではないので想像の域を出ることはできませんが、その目的に関係なく前述したように、その現場、それも学校内という現場においてディアローグ的な対話が発生していることは非常に重要です。そのメカニズムについて知りたい方は、重ねてですが私の著作やオルタナティブ教育論の講義を読み聴きしてみてください。なかなか話しをする機会がなく、一方的な物言いになってしまい申し訳なく思っています。興味がある方はお声をかけていただければ話す機会を作ります。かいつまんでポイントだけを話すと、ディアローグ的な対話の積み重ねは、存在論的差異を引き起こします。そして、その継続的な実践は、代補の運動になるということです。結果として、脱構築的な階層秩序の破壊が起き、教育内ならびに学校内における価値観の転倒、すなわち変革が引き起こされるということです。こうした流れは、私が意図している戦略と重なります。ということで、私の結論的な感想は、こうした実践をどんどん広げること(但し、数による体制からの抑圧への転換期には注意が必要)と、スタッフと言いますか、支援者の養成システムの確立は必要かもしれません。
 と、勝手な感想を書きました。何かの参考になればうれしいです。

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