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『運び屋(THE MULE)』を観て

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 大好きな映画監督、クリント・イーストウッドの最新作『運び屋』を観てきました。今回の作品の楽しみだったことの1つは、彼自身の監督作としては、11年ぶりの主演作だったことです。主演と言ったって、彼は、御年88歳です。そして何年か前には、「今のハリウッドには、自分が演じられる作品がない」とまで発言し、俳優引退もほのめかしていました。その彼が監督そして主演です。これだけでも、僕の期待は否応なしに高まります。

 今回の作品は、アメリカで実際にあった話が基になっています。アメリカの麻薬密輸事件史上、最年長となる検挙当時87歳であった麻薬の運び屋レオ・シャープ老人の話です。この事件のあらましを物語として、レオにあたる役柄、劇中ではアール老人をイーストウッドが演じました。作品のあらすじやキャスト等については、実際に映画館に足を運んでいただくとして、いつものように感想と言いますか、想い浮かんだことをツラツラと記しておこうと思います。

 まずともかく第一印象は、アールの人生なのですが、第二次世界大戦後のアメリカの歴史を見ているような印象を受けました。その中身は、当然のようにアメリカ資本主義の発展と衰退ということになるのでしょうか…。ただ、本作を観て衰退なのかそれともある意味で、一層の発展(変化)なのかもしれないという気持ちも残りました。

 朝鮮戦争から戻った退役軍人のアールは、デイリリーというユリの花の栽培を専門とする園芸農家でした。彼は、新しい品種を開発し、全米で販売するなどして、その業界において名声と富を獲得していました。貨幣の獲得や名誉や情愛への欲望を満たすため、アールは人生の大半を仕事に費やしました。しかし、現在では、家庭を顧みなかった結果、家族を失い。IT化など業態の変化に対応できず農園も手放すはめとなっていました。
 ここまでの話で直ぐに分かることは、戦後資本主義発展の原動力とは、アメリカのみならずですが、貨幣の獲得や情愛の獲得であるとか、人間が持つ欲望(情動)であることがよく分かります。こうしたパッションのような情動(欲望)は、貨幣を獲得することが第一目的となってしまった資本主義発展の原動力ととても相性がいいわけです。しかし、一方でそうした成功は多くのものを失うことになります。家族(共同体性/包摂性)であるとか、貨幣では換算することができない価値によって結ばれている人間関係(愛)などです。このことは、退役軍人会や家族との関係を維持していくためにアールは、貨幣を獲得し続けなくていけなかったことからも逆説的ではありますが浮き彫りにされます。
 貨幣を獲得することを中心として成立している社会は、発展の余地(新市場等)がある時は、モノローグ的な社会であっても自身の存在を相対化することができます(地位や名声等)。しかし、市場などが限界となりもうこれ以上の発展が望めなくなると、そうした閉じた社会においては、国家や人の精神性などが分裂をしていきます。唯一、統合の拠り所(正統性・平等性の担保)であった貨幣が獲得できなくなるからです。社会の格差は広がり、人々の精神は分裂し病んでいき、不安と暴力が満ちた社会へと変わっていくことになります。
 こうしたアメリカ社会の変貌は、アールが関係した麻薬の搬送ルートが、メキシコからかつてのアメリカ発展の中心であった北米地域、いまやラストベルトと称されるデトロイトなどであったことからもよく分かります。精神を分裂させてしまった人々は麻薬を必要とし、格差などによって分裂をしてしまった国家は、ナショナリズムの先鋒であったトランプ氏を必要としたわけです。

 アールにとって物を運ぶことの意味は何だったのでしょうか。結果としてアール自身も再び貨幣を獲得することになるわけですが、彼の運び屋としての日常を垣間見ると、第一義の目的はそこにはないように見えます。アールにとって物を運ぶことは、たぶん麻薬でなくてもよかったと思われますが、彼自身が役に立つ存在、すなわち存在の意義を取り戻すための行為であったように思います。組織の連中と対話をすることで自分の知らない世界の知識を獲得しつつ、彼の存在の意義としての信頼などを取り戻していきます。物を運ぶ行為を繰りかえすことが、彼にとってはまさに社会的な運動(代補)となっていたのです。一方で、貨幣を獲得することが第一義である麻薬組織は、そうしたアールの自身の存在証明を望む彼の本性的な欲望すらも貨幣を獲得するための新しい市場として回収していきます。貨幣を獲得することを第一の目的とし、その原動力として人の持つ欲望(情動)を利用するのは、社会の表の組織であろうが裏の組織であろうが関係ないわけです。貨幣獲得に対する果てしなき欲望、こうした欲望を果たすために人は手段を選ばず突き進むと言いますか、暴走し続けることになります。アールもそうでした…。自身の存在の意義を取り戻し、合わせて貨幣も獲得できる暮らし、そうは簡単には手放すことはできなくなります。ある意味で、仕事中毒であった昔に戻ってしまったのです(再領土化)。

 そうしたアールを正気に戻したのが、家族の「愛」と「法」でした。貨幣では獲得することのできない家族だけが持つ共同体性や包摂力や、暴走の抑止となる法がアールが亡者となることを押し止めたのです。中でも法への信頼、言い換えれば民主主義への信頼をイーストウッドは、彼の作品の中でいつも明らかにします。彼は暴走する欲望をコントロールするためには、法が必要なことをよく知っています。そして、健全な資本主義を維持するには、法による公平性が必要なこともよく知っています。逆に言えば、近代以降の民主的な国民国家では、暴走を抑止するための役割を与えられた法を信頼し尊重することが大切であることをよく理解しているのです(立憲主義等…)。
 アールも素直に法に従うことを選択します。貨幣を獲得し続けなくてはいけないと、まさに麻薬中毒(貨幣中毒、んっ、貨幣獲得を第一目的とするような資本主義自体が麻薬なのか…!?)のようになっていたアールも、収監されたことによって貨幣獲得の日々とは切り離された穏やかで安心安全(自由で平等)な日々を取り戻したように見えました。刑務所で花栽培にいそしむアールは、自身が本来いるべき居場所に帰ったような穏やかな表情をしていました。

 ということで、映画を観終わって、今までのアメリカ的資本主義の発展ということであれば、行き詰まった貨幣獲得的な発展を再び行うために、戦争などによってリセット(再領土化)し、幻想的ではありますが、再びの発展を演出することになるわけなのですが、この映画では、貨幣を獲得することが第一目的ではない次のステージとでもいいましょうか、穏やかで自由で平等な社会が必要なのではないかという提案のようにも見えました。さて、現在のアメリカ社会は、イーストウッドが考えるようなより成熟した社会を向かえることができるのでしょうか…。
 と、おおまかに今回の作品を観て思いをめぐらせたのでした。あっ、そして最後に考えたことは、イーストウッド氏のような映画人というか表現者がい続けているアメリカ、このアメリカにあって、日本にないものとは何なんだろうと、考え続けることとなりました。それは、薄ぼんやりとではありますが、主権者意識なのではないかと思った次第です…。いつもながら、いろいろと考えさせられるイーストウッド監督作品でした。(^^)/

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社会の変容

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 最近、考えることがあります。この話の前提は、その昔あった社会、とりあえず日本的な社会を想定します。日本的社会と言っても、100年や200年ほど前の社会ではありません。例えば、縄文の頃の日本社会をイメージします。そもそも、縄文の頃の日本社会と言っても、国家の概念もなければ何か記録が残っているわけでもありません。そういう意味で言えば、考古学的な資料などをもととした断片的な材料による想像的な話でしかありませんが、少し与太話を続けてみたいと思います。

 これからする話、昔から空想科学小説などにあるありきたりな話のようにも思えますが、ともかく書いてみることにします。ここ最近、メディアなどで紹介される地方や地域発の試みなどを見ていると、昔からある空想科学小説的な話もあながち荒唐無稽な話でもないと思うようになってきたのです。さて、その空想科学的な話とは、『猿の惑星』に代表されるような人間社会というか、歴史や文明は繰り返しているという話です。こうした話のミソは、往々にして主人公が、タイムスリップなどをした結果、過去だと思っていた所が、実は未来であったとかいう点です。そして、核戦争などによって文明などがリセットされ、一からやり直しているというわけです。
 では、何が僕をそう思わせるのでしょうか。最近というか、最新の世界、特に経済的な視点が強くなってしまいますが、欧米や日本が、一応、近現代における主たる経済システムである近代資本主義が高度に発展した地域であると仮定します。その結果、世界の経済政策は、グローバル化であるとか、新自由主義的な傾向を強めました。すると、強力に推し進められた資本主義的な政策は、より一層の社会や人間精神の個体化を進め、社会の中に格差や貧困・雇用の流動化などを生み出しました。1980年代以降、世界各地で、こうした流れに抗い奪われた権利などを回復するために、地域共同体の回復やその自己決定権や自治権を回復するための運動が起こりました。近年、日本においても、多分にマッチポンプ的ではありますが、高度経済成長等によって分断細分化されてしまった地方の共同体が、地産地消などを掲げ、地域における持続的な経済サイクルの回復や新たな文化資本の蓄積などに取り組み出しています。
 また、発展した資本主義によって確実に国民における経済格差などは広がり、本来、国民国家が積極的に保証しなくてはいけない国民の基本的人権や社会権や生存権が脅かされだしており、公的なセクターによる所得の再分配等の必要性などが指摘されるようになりました。そうした試みや傾向は日本だけではありませんが、総じて、新しい資本主義的な動きと位置づけています。これらの試みには共通した要素があります。それは、地域共同体の再構築であること、貨幣的な価値だけでなく貨幣では獲得が難しい社会・文化資本等の蓄積と同時にそうしたものを交換することによって(平等)、自分たちの暮らしやイノチを保証する社会を目指していること。そして、自分のことは自分で決めるという、自己決定権(自由)の確保などという点です。さて、こうした社会のことを過去の表現から言えば、社会主義的、もっと進めば共産主義的な社会であるということになり、かのマルクス先生が言った通り、高度に発展をした資本主義は徐々に社会主義に移行するということになるわけです。各国とも、そうした傾向を社会主義的とは言わずに、新しい資本主義的ものだと表現するのは不思議でなりませんが…。ともかく、僕の目から見たら、先進国と言われている多くの国は、呼称は様々ですが、確実にかつ否応なしに社会主義化しているように見えます。

 おそらく、さらなる資本主義的な経済発展を望み、より一層強力な多様化や選択の自由化を進めたとすれば、否応なしに社会、いや世界の分裂化は進み、格差・貧困は広がり固定化され、そして当然のように、市民というか国民は、自分たちのイノチを確保するための自己防衛のために共同体化の再構築をはじめとする社会主義的な試みに力を入れることになっていくような気がします。まぁ、そうした事態を避けようとして、公的なお金を地域に再分配したとしても、それもまた社会主義的な政策であると言わざるを得ないと思います。つまり、どっちみち、資本主義的な社会が発展すると、社会は社会主義化せざるを得ないということです。

 自然の成り行きでは、変移をするであろう社会主義的というか共産主義的な社会、形式的には実現していた時代が、日本にもありました。それが縄文時代です。縄文時代の人々の暮らし、断片的な資料を見るかぎり、それゃ、パソコンも4Kテレビもエアコンもありませんが、ある意味で豊かで平和な暮らしであったように思えます。弥生時代のように、地域間の争いなどもなく、いくつかの地域集団が棲み分けをし、必要なものなどを物々交換などしながら平和に暮らしていたのではないかと推測されます。ということで、では、必然というか自動的というか、原始共産社会と呼ばれるものにでも戻れと主張するわけではありません。僕が懸念というか心配しているのは、今後社会は、AIの導入などが推進され、ほっぽっておいても否応なしに社会主義化すると思われるのですが、おそらく社会が自由で平等となることを嫌う勢力が台頭してくるのではないかということです。
 過去においては、そうした勢力が周到な手口を使い戦争という方法によって、全てを一端リセットし、再領土化(再市場化)してきました。しかしながら、今度こうした事態となった場合、地域などを限定した、それも通常兵器のみによる戦争にはならず、核爆弾を使用した全面戦争となり、地球そのものが荒野に戻り、社会も発展した形で社会主義社会となるのではなく、人間の文明・文化が後退した形で、今一度、原始共産社会のようになるのではないかと危惧するわけです。
 そうした社会の変貌も、プロセスは違いますが、選択肢としてはありうる社会の発展形態の1つなのでしょうか…。僕の希望としては、ソフトランディングでお願いしたいと思うのですが、私たちの住む国では、もういつでもハードランディングに参加できるような準備が整ってしまっています。今後、どちらの道を選ぶのか、僕からすれば国民の意思次第な状況になっていると思うのですが、現状は…。(^^;)

 追記
 もう少し丁寧に言えば、社会の個体化が進むと、否応なしに下方への平等化が進むということですね。結果として、市民は、物質的なものを獲得することが第一主義であるような生活は維持できなくなり、貨幣では換算できないような精神的なものの豊かさを優先する主義へと変化せざるを得なくなるということです。ようは、生き方(イノチ・自由・自律・平等など)とか、本当の豊かさとは何かを問い直すことになると思います。

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「反資本主義であるということ」

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 話の前提として、確認をしておかなければいけないことは、僕は日本語訳しか読めないので、翻訳の問題は残りますが、マルクス自身のテキストを読むかぎり、マルクス主義一般とマルクス自身の主張の意味は違うということを知っておかなければいけないと思います。例えば、マルクスは、資本主義と社会主義などを二項対立的なものと捉えてはいず、資本主義が高度に発展すると否応なしに社会主義的なものに移行(移行するメカニズムは弁証法的)すると言っています。さらに、彼自身はあまりはっきりとは、社会主義とか共産主義という言葉は使ってはおらず、社会の変容した形態の説明として表現しているに過ぎません。また、社会という言葉の意味についても、彼がそもそも経済学者ではなく、社会学者であったように国家の中にあるものではなく、国家の外にある人間にとってのコモンセンス的な時空であるという捉え方をしています。したがって、そこらへんのことを読み誤ると、最近の風潮から資本主義と社会主義は、二項対立的な視点から社会主義的な考えそのものはダメになったので、考える必要がないという雰囲気に取り込まれてしまいます。

 さて、最近のといいますか20世紀に入ってからの日本の社会、少し厳密に言い、戦後の日本社会は、急激に発展した近代資本主義社会であったと言っていいと思います。もう既に何度も書いていますが、資本主義発展のための2大要素は、「新市場開拓」と「技術革新」でした。当然のように、日本もこうした要素を繰り返し実現することによって発展を維持してきました。この仕組みは資本主義というシステムが構造的に持つものであり、資本主義的な発展を望むかぎり避けることはできません。
 そして、発展を実現する一方で、結果として否応なしに起きる要素もあります。例えば、それは未開拓な市場がたくさんある場合はよいですが、ある商品が市場に行き渡り市場が有限だった場合、次に商品を売るときは、市場を個体化(細分化)していくしかなくなります(当然、性能を上げるための技術革新も伴います。)。こうした市場の個体化は、商品を消費している消費者や商品を生産している生産者たちの精神面においても同様な個体化、すなわち精神の疎外化を引き起こすことは、これまた資本主義の本質でもあります。その他、資本主義の発展に伴う構造的な傾向として有名なものとしては、利潤率の低下などの問題もあります。
 どちらにしても、資本主義的な発展はよいことばかりではなく痛みといいますか、ある意味で次への社会的移行のための犠牲も孕むということです。しかしながら、資本主義的な既得権を持つ者たちは、こうした体制を維持延命するために、歴史的に見ても、同じような手を打ってきました。それが例えば、グローバル化であったり、ブロック経済化であったりします。こうした手の打ち方は、それほど新しいものではなく、資本主義発展の歴史の中では何度か繰り返されてきたことです。そして、その結果、特に近代の国家においては、個別化であったり、グローバル化などによって発する分裂化を防ぐために、国家の再統合ツールとして、ナショナリズムや福祉国家政策などを実施してきたのです。と、ここまでの流れは、国家が資本主義政策を採用し続ける限りは否応なしに繰り返される流れです。つまり、こうした流れの1つの終着点として、資本主義の発展に伴い結果として広がるであろう様々な格差(分裂)を緩和させるためには、どこかで、貨幣的な利益を含め豊かなになったものを国民などに一律に再分配する必要性が、これまた否応なしに出てくるのです。そうしないと国家を維持できなくなるからです。しかし、これでは富や権利を独占した者たちがそれを手放さねばいけなくなります。そのことを考えたとき、飽和してしまった市場などをリセットし再領土化する方法がとられてきました。それが、言わずと知れた「戦争」という方法です。特に、この方法は、その目的がそもそも一部の既得権益者のためのものですから、それを選択する正当性が低いわけです。したがって、日頃から国家がそうした選択をしたときに国民などが疑問を持たぬよう、教育などを活用して正当化の担保に力を入れていることも言うまでもありません。
 いじょうの前提を再確認しつつ、最近準備している来年の市民講座のことや、横浜・寿であったシンポなどで触発されたことを書き留めておこうと思います。

 今、来年開催予定の子ども・若者の居場所に関する市民講座において、僕が開催目的の問題意識の1つとして考え続けていることは、「居場所が、単に現社会に再適応させるための救済の場(再回収の場)にはなってはいけない」ということをどう伝えるのかということです。そんなことを考えているときに、毎年のフィールドワークで学生たちと訪れている横浜の寿のことを思い浮かべました。そこでの「学び」の意味については、今、他の文を書いているので、出来あがったらお知らせします。そして、先日、寿で行われたシンポジウムに参加する機会がありました。そこで聴くことができた、寿で長く活動されている石井さんや村田さんの話は、今までも何度か聴かせていただいていたのですが、今回はさらなる確信的な意識へと導かれる契機となりました。まだ、ちゃんと整理されていないので、とりとめのないメモ書きのようなものになってしまいますが、気がついた順に書き並べたいと思います。

 1つは、以前にも書いたのですが、強力に分裂化を進める現社会に対して、僕は、「今、寿のまちは、いろいろな人を集める場所だ。」と言いました。それ以来、僕の中では、寿が持つ人々を集める機能やら力とは何なんだろうと考えていました。その概観は、社会の構造的な作用によって個体化された社会から排除された人々が、寿が持つ包摂的な力に引き寄せられるのだろうというものでした。そうした検討をさらに進めるにおいて、今回のシンポにおける村田さんの話は非常に示唆的でした。「寿のまちは、単身者が中心でそれもドヤは究極に狭い空間です」、「寿の住人たちは、寿の自由さがいいと言う」、「依存症者は家族のもとにいるより、単身者でいた方が回復が早い」、「住人の多くが生活保護を受けている」「多くの装置でコントロールしようとしている」等。これらの発言を聴いたとき、僕がまっさきに思ったことは、寿は、現代社会におけるカウンターの場なのか、それとも発展の最先端の場なのかということでした。簡単に言い直すと、反資本主義の場なのか、超資本主義の場なのかということです。
 A面として、反資本主義の場であると見るならば、まさに戦後日本における急激な資本主義化による負の側面の記憶の場であると同時に、日本社会が失ってしまったものを告発し対抗し続ける闘争の場であるということになります。そして、今回のシンポによって新しく見開かされた部分は、B面です。2つめとしてまとめると…。
 寿のまちは、戦後日本における資本主義化された社会の成長点のように見えるということです。ある意味では最先端と言うべきなのか、資本主義というシステムがその発展形態として自然に生み出す形態の1つと言えるのではないかということです。こうした面で考えたときのポイントの1つは、寿の人々の多くは選択肢がなかったわけなのですが、資本主義の持つ本質的な機能によって、身体も精神も最終的な形として個体化された人々が、個々のイノチを確保する(生きる原動力としてのイノチを守ること)ために、寿という街に群体化し、そこで福祉共同体化し包摂力を回復し、自己決定権を再獲得していく…。こうした共同体(コミューン)は、所得の再分配、福祉社会実現のように見え、そもそもマルクスが言ったような社会主義的な共同体(社会)のようにも見えます。そして、寿の街が現社会における対抗の場ではなく、超社会のように見える一番のポイントは、寿の住民たちが結果として「自由」を再獲得している点です。本来、資本主義社会の大きな目的の1つは、「自由」の確保であったはずです。寿の人々が、より一層の市場化等に絡められないまま、ある意味で「自由」と「独立」を確保し続けている様は、むしろ、現社会の正統な発展形態であるように、僕には見えるのです。

 村田さんがおしゃった「良くしようとするのはやめた方がよい」、すなわち、コントロールしようとする装置に近づかない方がいいと言ったことの意味が、俄然、重みを増してきます。この視点は、僕たちが子ども・若者の居場所をつくり運営していくときの心構えとも共通してます(僕たちの場合のそうした意識を獲得するまでの経緯については、『居場所づくりの原動力』(松籟社、2011年)に書きました。)。
 
 寿のまちとのつき合い方も含めて、子ども・若者の居場所づくり等、僕たちには何ができるのかと考えたとき、まだまだ、途中の話しではありますが、今日までのところではっきりと言えることは、寿や子ども・若者の居場所から学ぶことや、彼らの自治権や自己決定権を保障するための支援はあっても、救済する意識によってコミューンに介入(再適応化)することは、再回収(再領土化)であり、消費することになるということを肝に銘じておく必要があると思いました。
 そして今後の展望の一部を妄想的に書き加えるのだとしたら、超資本主義的なコミューンとして成立したこうした場を、外からの圧力(抑圧的な/政治的なものも含め)などによって排除・解体などさせることのないよう、当事者住民やその他の市民が共に連帯をして代補的な運動を継続させていくことが大事だと思います。また、そうした仮説的見通しが正しいのだとしたら、資本主義に行き詰まった社会は、早晩そこに生きる多くの人々が自分たちのイノチを守るための活動によって、おそらく寿のまちや子ども・若者の居場所のような共同体/運動体へと成長していくことが予想されます。そして、そうした動きに対し、既得権益者を含む体制側は、最終的には「戦争」などという方法も含め、再領土化的(抑圧/排除)な政策を押しつけてくると思われます。そんな力に対する対抗のし方なども考えつつ…。と、段々いつも通り大きな話しになってきましたので、ここらで一区切りつけたいと思います。<(_ _)>

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『万引き家族』を観て

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 ブログの方も、もっとコンスタントに書こうとは思っているのですが…。時間が経つのは早く気がつくと季節はめぐりめぐって蝉の鳴き声が耳につく季節となっていました。
 この間、書きたいことは多々あったのですが、文字にする間もなく時間ばかりが過ぎてしまいました。前期の若者たちとの対話においても、その話題は例年のごとくではありましたが、やはり社会の格差の問題等は、関心も高く何度か話題にすることがありました。特に、7月以降この格差社会等の問題を取り上げる度に、その頃観た是枝裕和監督の『万引き家族』や、同時期に毎年、若者たちを連れて訪れる『フィールドワークことぶき』での学びとも相成って、様々なことを考えることになりました。
 映画を観た感想やら、フィールドワークを通じて考えたことなどを絡めて、現代日本社会における格差問題を改めて少し考えてみたいと思います。

 まずは、是枝監督の『万引き家族』を観て考えたことから書きます。この映画は、海外の映画コンペで最高賞もとり内外で評価が高い映画です。大ざっぱなテーマというかストーリーは、現代日本の格差社会の中で持たぬ者たちが生き抜くために、疑似的な家族(共同体)を作り、暮らしを守っていく話です。この映画が問いかけている問題としては、当然、現代日本社会固有の問題をはじめとして、近現代の社会、特に近代資本主義社会が抱える普遍的な問題も含まれています。
 この映画から想起される様々な思いは、相当に詳細かつ多岐にわたってしまうので、それを1つ1つずつ書いているとたいへんな量になってしまうことが予想されます。なので、根底というか大本となっている構造的な部分の話を中心にしていきたいと思います。この物語の舞台となっているであろう現代の日本社会の特徴を言えば、やはり、1990年代後半以降、さらなる経済的な発展を目論み強力に遂行された新自由主義的な政策を忘れることはできません。既に、グローバル化やデフレの影響から、社会の格差化が進んでいた日本社会において、新自由主義的な政策の推進は、より一層の格差化を進めたことは言うまでもありません。
 新自由主義政策における格差化の原因は、「競争の自由」であるとか「選択の自由」であるとかと主張される言葉からも分かるように、資本主義発展の柱である「新市場開拓」ならびに「技術革新」の強化であったのは、改めて言うまでもありません。こうした言葉とセットとなっている「自己責任」という言葉からも直ぐに分かるように、こうした政策の推進が資本主義の中心的な性格である「個体化」を招くことも、改めて言う必要もないと思います。簡単な言葉で言えば、社会の分裂化を進めるということであり、人間個人においてもその精神の分裂化を進めるということになる訳です。
 つまり、避けることのできない社会の分裂化、言い換えれば、格差化、人々の精神の分裂化は今後も拡大していくことは自明であると思われます。そうした日本社会において、人々はどのように自衛というか対抗していこうとしているのでしょうか。発展においては、「競争の自由」であるとか、「選択の自由」であるとか言われてはいますが、持たぬ者(多くの国民)にとっては、下層への競争はあっても選択の自由など存在せず、選びようなどない状況なのです。そんな状況の中で、国民たちは生き延びるために様々な自衛策を講じているのです。ここで注意が必要なことは、経済的な活動に対する自衛だけでなく、分裂していく精神への自衛も含まれているということです。
 それらの具体的な実践というか、市民生活のあり様が、この映画で描かれている疑似家族であったり、児童虐待の回避であったり、組織の中にいる人間とフリーの状態にいる人間との対比だったりするのです。
 しかしながら、この映画の鋭いところは、こうした分裂社会化傾向については、当事者である市民たちのみならず、違う意味ではありますが、統治者側も認識をしそうした傾向が過度に進むことを危惧しているのを伝えることを忘れてはいません。その象徴的な言葉が「絆(きずな)」という言葉の強調です。こうした言葉が統治者側から意識的に広められたのは記憶に新しいと思います。統治者側にとって社会の分裂化は、資本主義の発展を目論めば目論むほど進むわけなので、それを危惧することはマッチポンプ的ではありますが…。彼らにとって社会の分裂化が進むことで大いに困ることは、やはり、国家の統合が崩れていくことです。これは何も新しい話ではなく、近代の国家において発展と国家統合は両輪的な関係で、統治者側は様々な道具を使い、分裂していく国民の国家意識を絶えず再統合していこうとするのです。その道具の中心的理念がナショナリズムであったり、道具としてのオリンピックであったり万博であったりするのです。

 さて、この映画の中では、分裂化社会に対する対抗策として、市民の側では、疑似家族をはじめとする地域などの共同体(包摂力)の再構築が表現され、統治者側は、そうした市民の側の対抗策が法外に及ぶため嫌い(統治できなくなる)、「絆」という上からの再統合を促すことを明瞭に表現しています。
 こうした、この映画でもそのモチーフとなっている市民の側が分裂化社会に対抗する手法をより明確に認識させたのが、観賞と時期を同じく実施した「フィールドワークことぶき」だったのです。毎年、大学生らを連れ訪れる横浜寿町でのフィールドワークにおいて、現場でのレクチャーをお願いしている寿での生活者の1人である石井淳一さんが、寿の町の特徴を表す表現として、「日雇い労働者が集まる」「無宿者が集まる」「依存症者が集まる」「高齢者が集まる」「福祉対象者が集まる」「多国籍の子どもたちが集まる」等と、寿の町が「集まる」町であることを強調しました。この指摘はとても大事だと思います。そうです、社会の構造上、推進されている現代日本社会の分裂化に抗う方法の1つは、個人(市民)が集まることだからです(個体化に対して、群体化といういう言い方もあるかもしれませんが…)。ただ、ここでその違いを意識する必要がありますが、統治者側も国家の分裂化を防ぐために人々を集めるということは、その手法として重要視していることが分かります。ただ、その集まった人々の統合の意識が統治者側にとってのカウンターとなると面倒なので、あくまでも、集まった結果のエネルギーの開放方向を貨幣の獲得(消費文化化)の方向に向かう(経済的な発展)ようにすることは忘れてはいません。

 少し大ざっぱなまとめとはなりますが、現代日本社会の構造的な問題からくる分裂化に対抗するには、貨幣の獲得を優先するような経済性を孕まない共同体(居場所)の確保(再構築/運動)が、その方法の1つになるであろうことは間違いないと思われます。

 ということで、映画のみならず、それが絵画であれ、音楽であれ、何かで表現をするということは、制作者の意識に関わらず、そこには何らかの政治性が含まれていることに気づく必要があるということです(是枝監督の距離感は正しいと思われる)。この点についての話は、また長くなるので、別の機会にしたいと思います。それはアクション映画であれ、SF映画であれ同様です。それでは、また。(^^)/

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『15時17分、パリ行き』観ました…

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 観たかったクリント・イーストウッド監督の『15時17分、パリ行き』を観てきました。忘れないうちに感想をちょこっと書き並べておこうと思います。

 この映画は、2015年8月21日、乗客554人を乗せたアムステルダム発パリ行きの高速鉄道タリス車内で発生したテロ事件(タリス銃乱射事件)に旅行中に居合わせたアメリカ軍人2名と大学生の3人の友だち若者グループの話です。結果として、この3人の若者は協力し犯人を撃退して、怪我を負った乗客を助けることになりました。この当事者である3名が本人として出演したドキュメンタリータッチの作品です。

 さて、ツラツラと感想を書いていくことにします。俳優としてのクリントさんも当然ながら、監督としての彼も僕としては大好きな人の一人なので、彼の出演・監督作品は多く観てきました。最近では、『ハドソン川の奇跡(2016年)』『アメリカンスナイパー(2014年)』『グラントリノ(2008年)』等々とです。で、まずは今回の作品の感想を書く前に、少し彼の人なりに対する感想を書いておこうかと思います。感想と言うよりは、僕勝手な印象といったものです。僕が持つ彼のイメージは、草の根右翼的な感じでしょうか…。伝統的なといいますか、まっとうなナショナリストという感じです。まっとうとは何かと言う問題はありますが、僕の勝手なイメージでは、日本でいうところの北一輝氏のようなイメージで「国民の天皇」と言った言葉に重ねるならば、「国民のアメリカ」というスタンスを誇りとして持っている方のような気がしています。そんな彼の最近の作品は、アメリカの伝統的な保守主義(ただし宗教との絡みは注意が必要ですが)から見ることができる現アメリカに対する憂いみたいなものがモチーフとなっているような気がしています。なので、今回の作品も、政治的な立場から言えば、彼は時や支持する人によって立ち位置を変えてはいますが、最近のイメージでは共和党寄りな感じであった彼でさえも、トランプ氏への批判も含めた政権への批判的な眼差しを含むものだと感じます。

 五月雨式に作品の感想も断片的に含めますが、最近の彼の作品は、個人にフォーカスされたものが多いです。一アメリカ国民の日常の延長線上にあるものや、日常の中で起きる事件の意味について描いているものが多いです。彼自身も経験しているからでしょうか軍人(軍隊)に関係している設定も多いと思います。彼のような立場で国家や国民の主権というものを考えるとき、軍人だとか移民の人たちだとかの存在は表象対象となるはずです。中でも軍人においては、今回の作品でも3人の若者の一人が、人のために役に立ちたいと軍隊に志願するシーンははずことができないでしょう。昔、三島由紀夫氏が軍隊は志願じゃないと信用ならないと言ったらしいことに通じます。このことは、ちょっと嫌なイメージを想起させてしまいますが、自分のもの(国民)として国体(アメリカであれば、アメリカ民主主義)を守るという主体?的な意識を重視する…。ここでちょっと注意が必要なことは、アメリカの国体であるはずのアメリカ民主主義は、その前提として、主権者としての国民が作るもの、もしくはそうした国民が本来持つはずの基本的な権利等(例えば、自分のことは自分で決める的なもの)を守るために国家(国体)があるということで、そこの順番を間違えてはいけません。草の根右翼的に言えば、彼の作品の多くが義理と人情、人間の情動から来る内発的な意識を大切にして振る舞え、そしてそうした価値観が保証される社会とそれを守るために機能した制度を国家は持つべきであるという主張を垣間見ることができるはずです。
 だとすると、人の持つ内発的な意識を重視すると同時に、そうした国民の心のあり様を守るための制度とその理念的なものもしっかりしてないといけないということにも通じます。同様に教育の分野(哲学者として見た方が分かりやすいが…)において、子どもたちの内発的な意識を重視したデューイ氏は、まっとうな民主主義の上で教育はされなければいけない的なことを言いましたが、まっとうな民主主義が機能していなければ、教育をはじめとする様々な装置が健全な働きをしないということです。この点についても、彼の作品は指摘をしていると思います。つまり、現在のアメリカでは、国民が本来持つであろう内発的な意識による主権者意識を基盤として形作られたはずのアメリカ民主主義という制度そのものが劣化して揺らいでいる(例えば、金融資本主義への変化)ことに対する憂いも含んでいるように思います。今回の作品では、保守的な装いをしながら、伝統的な保守としての原則に無頓着なトランプ氏への批判も含まれている気もします。

 補助線的なことが長くなりましたが、以上の視点などを念頭にして、今回の作品を観ていくと、いろいろなことに気づかされます。偶然的な感じはしますが、なぜ、パリなのか、アムステルダムなのか…。アメリカの歴史を知っている方なら、フランスやオランダとアメリカの関係から、直ぐにアメリカ独立戦争(1775-1783年)のことを思い出すに違いありません。ヨーロッパやイスラム圏とのことも想起するかもしれませんが、独立戦争におけるフランスとの関係は、アメリカ建国と深い関係があるだけに、アメリカという国の原点を思い起こさずにはいられません。フランス革命などからの影響や、カトリックとプロテスタントとの関係による現在アメリカの宗教的な政治バランスなど…。どちらにしても、まさに建国の志であった、例えば国民の内発性としての自由や平等の意識などを取り戻すべきであることを気づかされます。
 また、映画の中で出てきた教育(学校)に関することにもいろいろなことを思い起こさせます。主人公の若者たちは、個性の強さゆえに公立の学校にいることができず、宗教系の私学に転校します。しかし、そこでも学校にはなじめずにいました。このシーンも重要なシーンだと思います。アメリカにおける公立の学校は、本来であれば個性が強い子どもたちの持ち味を引き出す場でなくてはならないのに、むしろ排除し1つ間違えれば病気にして医療的新市場に回収させようとする。そして、本来であれば、アメリカ発展の原動力を補完していたはずの宗教的な私学でさえも、内発的な才能を持つ子どもたちを包摂しきれない現状…。公的な制度や宗教のあり様が転倒してしまっているアメリカ社会に対する警告がここにあります。
 軍隊に志願した若者の一人が言います。彼は、人や社会の役に立ちたいと軍隊に入りますが、第一志望の部隊に属することはできず、それでも与えられた場所で努力をしますが、なかなか評価されず、それでも自分には何か大きな目的とか役割が担わされているはずだからできるかぎり頑張ると…。そんな気持ちで生活をしていた彼の前でテロ事件が起き、彼自身も負傷を負いながらも身体張って犯人を撃退し怪我を負った人を助けます。ずーっと現アメリカ社会からは疎外され続けられていたにもかかわらずです。おそらく、これは軍人(軍隊)賛美ではないことが、今までの話からも分かると思います。本来のアメリカであれば、当然のこととしてまっとうに評価されなければいけない人たちが、そもそも、そうした人たちが国民であり、社会の様々なところで国家を支えているんだということを忘れるなということであり、転倒してしまった社会のあり様を本来の当たり前の社会に戻せというメッセージなのではないかと思った次第です。

 ということで長くなってしまったので戯言はこれくらいにしますが、この作品では、その前半、いや3分の2ぐらいが、主人公である3名の若者たちの子どもの頃からのライフヒストリーが坦々と流されます。簡単に言えば、リアルタイムにおけるアメリカの子どもたちの暮らしです。そこには、今、アメリカが抱える様々な問題が凝縮されていました。そうした中で、次世代を担うアメリカの若者たちが何を失い、何を失っていないのか…。そして、どんなに後から人が作った教育とか軍隊とかというシステムを使い洗脳されようとも、失ったり失わせたりできないものがあり、そうした内発的な情動そのものが、アメリカ建国の志であることを今一度思い起こせというメッセージだったと思います。
 で、こんな感想を走り書きした後、これは日本の未来に対する予言的な作品でもあるなぁ~、と気づかされたのです。
 あと、エンターテイメント(アート)としての映画表現とか、表現活動としての政治性の話(資本主義)だとかもしたかったのですが、また今度の機会に…。(^^)/

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居場所カフェシンポ

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 先日、ずっと注目をしている学校内における居場所カフェに関するシンポジウムがあったので話を聴きに行ってきました。記憶が新しいうちに感想を書き留めておくことにします。

 まず、大前提としてこうした試みはたいへん興味深く僕たちが行ってきた運動とも意味的には親和性も高く、どんどんと広がってほしいと思っています。ということで、当日の会場での対話から触発されたことも含めて、感想的なものをツラツラと書き連ねていこうかと思います。

1.戦後日本における学校ならびに教育の環境
 このような日本における教育だとか、学校に関することを考えるとき、その前提として日本の特に戦後の教育、なかでも公的な教育の環境について再確認しておく必要があります。それはどうしてかというと、教育、中でも公教育はその時々の社会の体制や政権のあり方から強い影響を受けるからです。例えば、戦前の日本における軍事的な教育のようにです。だとすれば、戦後の日本やアメリカの教育はご存知のように民主主義国家であるはずなので、民主主義的な教育を行うことがその目標になるはずです。
 そこで注意が必要なことは、確かに、戦後の日本やアメリカの教育は民主主義的な国家の国民育成をその目的の1つとして展開されましたが、後年では民主主義の質そのものが大きく変化をしてしまいました。質の変化に対して多分に影響を与えているのが、戦後の民主主義国家を支えた資本主義という仕組みです。少し丁寧に見れば、資本主義そのものが、金融商品の取り扱いなどを中心とした金融資本主義に変化をしたことが教育に与える影響についても考慮する必要もあります。しかし、戦後の特に日本の公教育においては、今も昔も近代資本主義的な価値観の啓蒙を土台として展開されてきたことは間違いありません。あえてアメリカなどとの違いを言うのであれば、憲法9条などによって非軍事による平和主義が明確にされていることでしょうか。
 戦後日本の公教育の特徴の1つを明確にすれば、それは資本主義的な価値観の定着とそうした社会で有用な人材の育成ということになります。その中心となる価値観は、貨幣獲得への欲望の正統化と善き消費者の育成です。こうした戦後日本の公教育のあり方はある意味で成功したと言えるでしょう。その証左としては、学校信仰のような学歴社会の定着であり、先進諸国屈指の消費社会の実現です。

 このように否応なしに戦後日本の教育に影響を与えたであろう資本主義の性格として、きちんと知っておかなくてはいけないことは、その推進の原動力は「新市場の開拓」と「技術革新」であるということです。特に、前者の「新市場の開拓」については、その未開拓の市場が広く残っている時代はよかったですが、有限的な市場の限界に達してからは、新市場を開拓するには、市場を細分化(または、リセットして再領土化)していくしかなくなったわけです。この状況を社会学的に表現すると、社会の個体化が進むということなります。社会の個体化が進むと、そこでは、様々な現象が起きます。多くの方も経験しているかとは思いますが、その昔はあった地域における包摂的な共同体の崩壊などはそのよい例です。社会の個体化が進むとその影響は、社会システムや価値観の変化を進めるだけでなく、人間の精神にも影響を与えることになります。その代表的な例が精神の疎外化です。統合失調症などの増加には、こうした要因が背景にあるとも言われています。

2.国家的な教育・学校が持つ性格
 ということで、少し荒っぽい言い方にはなりますが、そもそも、教育とか学校とかが、国家とか社会的な構造から完全に独立していないかぎりは(原則的には不可能)、上述したような価値観や技術を次世代の人間たちに身につけさせるものであることは否定しようがありません。特に、公教育がこうした役割を担わなければ、その存在の意義そのものが問われる事態となるわけです。簡単に言って、現在の教育や学校は、ある意味で正常に機能しているがゆえに、子どもたちの精神の分裂や個体化を促進していると言わざるを得ません。ただ、こうした子どもたちの精神の分裂化や存在の個体化は、一方で国家としては困るものでもあります。このような状態が行きすぎると、そもそもの国家としての統合が崩れてしまうからです。なので、教育・学校だけではありませんが、各現場では、ナショナルなものであるとか、疑似共同体などを使って、急激な分裂の防止や再統合の動きをも並列的行うようになります。
 ともあれ、結果として言えることの1つは、今の教育、特に現場である学校は、オートマチックに分裂・個体化が進む者を生みだしていると同時に、そうした状況が進む社会に適応できる者の選別をする場となっているのです。こうした状況は、外部から冷静に見れば是正しなくてはならないものだと気づくかもしれませんが、既にこのような価値観の刷り込みは何世代にもわたり行われているので、学校などの外部にいる者たちも学校化された社会の中で自身もそうした意識を再生産し続けているので、変革の必要性に多くの者は気づくことがないのです。

3.現代社会における学校の状況
 これらの背景をもとにして、学校現場の状況を見直すと、直ぐに2つのことが分かります。1つは、今の学校とかになじめない子どもは、人間的には健全であり健康で、意図的に形成された資本主義的な社会発展を前提(優先)とした教育システム(刷り込み)には嫌悪感を感じ、自己の安全保障の担保のために少々距離を置いているのではないかと考えられること。そして、もう1つ気づくことは、前述した者とは逆に、強度の適応化によって一層の個体化(孤独化)を望む者の出現ではないでしょうか。どちらにしても、こと学校においては、自らがこうした子どもたちを生みだしているのですから、今後、こうした状況の子どもたちの数は増加しても減ることはないと思われます。ある意味でマッチポンプ的ですが、学校のみならず社会全体のこうした状況の拡大は体制側からしたら予想の範疇なのかもしれません。
 学校教育における従来の試みとしての疑似共同体づくりや、部活や道徳教育の強化などの再領土化(再コード化)の試みは、必要不可欠なサブシステムである可能性は大きい言わざるを得ません。しかしながら、強度に進むコード化の中において、体制の側から見たら不適応とされる人間は、そのコード化装置の機能強化がはかられればられるほど、その数を増やすと思われます。ゆえに、自分たちの行っていることの正統性を強化するために、一度不適応となった者でも、もとのレールに戻す、戻れるようにするための再回収の装置の強化に体制側は一層乗り出すことが予想というか、既に、あの手この手で着手しているのです。ただ、まだより有効な方法を見いだすまではいってはいないと思われます。それは、そうしたことを考える、例えば教師などをはじめとする体制側の多くの者は、十分に適応した者たちなので、不適応者を元に戻すような方法はなかなか思いつかないのです。
 しかし、こうした時の補完的な方法を彼らはよく知っています。義憤を感じた在野の者たちの自主性に援助などし試行させ、工夫させその方法が有効であれば、様々な手法を使い、自分たちの方法の1つとして取り込むのです。そこまでの流れは想定済みだと言えるのかもしれません。

4.運動として問われること
 まずは、そこで私のような活動の目的というか理念的なことが問われるわけなのです。その問いのポイントの1つは、活動の目的の1つが、現体制への適応支援なのかどうかということと、現社会的価値観の再生産なのかそれともオルタナティブとしての価値観の変革を促すものなのかということです。少し日和った言い方をすれば、折り合いのつくところで適応しつつ(生きることを担保しつつ)、価値観のオルタナティブを模索する試みという言い方もありはします。今回のシンポの学校図書室等で居場所カフェの実践を行っている方々とはそうした理念・目的論は議論をしていないので、どちらの方向性を持たれているのか分からない関係上、ここからは会場での発言などだけから触発された点を勝手に述べていきます。
 一言つけ加えておきますが、当然のように、私などの活動は、適応・再適応支援ではありませんし、むしろ、価値観の変革を促すのが目的です。私たちの運動の理念や方法についてお知りになりたい方は、以前書いた『居場所づくりの原動力』(松籟社、2011年)や『沖縄平和学習論』(榕樹書林、2014年)等を読んでいただき、機会があれば私が行っているオルタナティブ教育論の授業などを受けていただければ幸いです。

 結論的なことを先回りして言うと、現場では、いろいろな意味で私たちが経験したことと同様なことが起きているのが分かります。いくつか紹介してみましょう。その多くが教員側からなどの視点からということになるでしょうか。例えば、学校内におけるこのような試みに対して、教員側の受け取り方は2通りです。1つは、距離を置く者のたち。その多くの場合に想像される意識は、会場での話にあったように、カフェを目的として登校してくる生徒の増加に伴い、本来の自分たちの本義である授業を通しての学びの喜び等の保証が不十分であることを意識すると同時に、学校の中で自分たちが保証できない学びを突きつけられることに対する拒否感。そして、もう1つは、自分たちができない学びの保証であることを自覚した上で、再回収装置(サブシステム)として学校全体の機能アップ(学校の評価アップ)を考え積極的に活用して(取り込んで)いこうとする意識。後者の意識は、協力的な意識として管理職等に多いような気がします。
 そして校内のカフェなどの場では、私が言うところのディアローグ的な対話が起きていることです。ただ、この点についてはこうした場を作れば誰しもがこのような対話をできるようになるのかというと、中心となっている人のセンス、もしくは支援者トレーニング(スタッフ養成などの課題)をしたかどうかという点において差異はあります。

 最後に
 では最後に、こうした実践運動が引き起こすものについて少し考えてみます。
 実践をしている方々と議論をしたわけではないので想像の域を出ることはできませんが、その目的に関係なく前述したように、その現場、それも学校内という現場においてディアローグ的な対話が発生していることは非常に重要です。そのメカニズムについて知りたい方は、重ねてですが私の著作やオルタナティブ教育論の講義を読み聴きしてみてください。なかなか話しをする機会がなく、一方的な物言いになってしまい申し訳なく思っています。興味がある方はお声をかけていただければ話す機会を作ります。かいつまんでポイントだけを話すと、ディアローグ的な対話の積み重ねは、存在論的差異を引き起こします。そして、その継続的な実践は、代補の運動になるということです。結果として、脱構築的な階層秩序の破壊が起き、教育内ならびに学校内における価値観の転倒、すなわち変革が引き起こされるということです。こうした流れは、私が意図している戦略と重なります。ということで、私の結論的な感想は、こうした実践をどんどん広げること(但し、数による体制からの抑圧への転換期には注意が必要)と、スタッフと言いますか、支援者の養成システムの確立は必要かもしれません。
 と、勝手な感想を書きました。何かの参考になればうれしいです。

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未来は

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 最近いろんな人と話しをしていると、日本の将来について語るとき、2つのタイプの人がいることに気づきます。1つのタイプは、たいへん悲観的で強い危機感を持っている人たち。そしてもう1つのタイプは楽観的で、ちょっと厳しい言い方かもしれませんが、刹那的でそんな先のこと考えてもしょうがないでしょという人たち…。まぁ、人間の習性として、ある社会の未来について語るとき、こんな2つのタイプに分かれるということ自体は、ごくごくふつうのことなのかもしれません。
 それで、僕が興味を持ったことは、ある意味で、近い環境にいるにもかかわらず、人によって反応がこのように180度も変わることです。確かに、90年代後半以降の日本は、新自由主義的政策などの推進により、一層の格差社会化が進みました。したがって、今日本の現実は物質的にも精神的にも相当に分裂が進み、特に、生活していくのが厳しい状況におかれている人々からすれば、日本の未来は悲観的なものにならざるを得ないのはしかたがないことだと思います。ましてや、さらなる資本主義的な発展を望むとしたら、こうした状況が訪れるのは一般的な結論なので、ふつう政府は推進すると同時にセーフティーネットの拡充も行うはずなのですが、日本政府は無頓着でした。せいぜい政府筋が行ったことは、分裂していく国家を再統合するためにナショナルな意識を煽ったことぐらいでしょうか…。

 さて、ここまでのと言いますか、今後のと言いますか、流れ特に近代以降の資本主義的な国家においては、何度も言ってはいますが、歴史の常において放っておけば自動的に戦争でリセットされるわけなのですが、どう考えても戦争によってリセットされるのは嫌だというのは国民の総意だとは思うのですけれど…。政府は、絵に描いたような戦争準備と言いますか戦争のできる国作りを着々と進めています。今のところ戦争以外の代案は示されていないようです。ただ、危機感を持つということで、軍事的な補強が必要だとの主張に対しては、少々違和感を感じています。その対象となるであろう某国は、一義的な攻撃目標は在日米軍基地だと言っているわけですから、日本から米軍基地を無くせば攻撃する理由はなくなるはずですし、同時に日本の主権を回復するわけですからナショナルな主張する方々から見ても同意できる話であるはずなのですが、あまりそうした点には触れられていないのが違和感を感じる理由です。

 と今のところは、そんな見え見えな未来に対して、危機的ではない一方の人々は、なぜゆえに楽観的でいられるのでしょうか。理由はいくつか考えられますが、1つには、やはり教育による規律化の成果ということになるでしょう。国家と言いますか政府が考えている方向性がそのまま国民の主体意識として刷り込まれてしまっているので、実際との差異には気づくことなく、政府の方向性=自身の意志だと思い込んでいる。そして、もう1つの理由は、本当に危機的な状況が来ることが予想されるので、生き物としての本能的な自己防衛機能の稼働により無意識的にそのことを考えないようにしている。こうした雰囲気は、日本ではその昔に経験した気もします。

 どちらにしても、より一層の分裂や戦争によるリセットという未来を呼び込まないようにするには、個人による自律主体によって選択し、自らの手で未来を切り拓かなくていけない局面であることは間違いない気がしているのですが…。それにしても、日々の暮らしが立ちゆかない状況は、精神を虚無的にさせます。ある意味で、正気を保つには、正統的な意識を創りだすアート(創造的)な活動が必要だと思うこの頃です。

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二重意識

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 最近、若者と部分部分ではありますが、ポール・ギルロイさんの『ブラック・アトランティック』の読み合わせをしています。この著作は、欧米で暮らすことを余儀なくされた黒人たちの文化・思想・歴史等を通じて、彼らの精神性を背景として近代性ならびに近代化の本質の理解を試みたものです。特に、これらの分析の重要な道具立ての1つとして、「音楽」が使われているところが、たいへん興味深い切り口となっています。

 僕自身は、既に昔に読んだことがある著書ではあったのですが、諸事情から再び読むというか、この著作を材料として対話をくり広げることになったのです。結果として、一人で読んだときには気づかなかったことが、次々と浮かび上がることになりました。ディアローグ的対話の効果は大きいなと改めて思ったのでした。そこで新たというか、再確認した部分なのですが、それは、二重意識という部分です。この二重意識とは、当著の中では当然、黒人における二重意識ということになるのですが、改めて読んで気づいたことは、日本人に重なる部分、そして僕自身に重なる部分の発見です。

 まずは日本人(日本とか日本人とかと表現するとき、その定義づけにいろいろと違和感を感じますが、一般的な意味で漠然と使います。)と重なる部分については、当著で言うところの近代化、言い換えれば欧米化ということになるかもしれません。そうだとすれば、日本における近代化(欧米化)とは、明治以降の話となるわけなのですが、そうした欧米化の波について、日本で暮らす人々は黒人たち同様に、欧米化に対する二重意識を持ったに違いありません。その二重意識とは、簡単に言えば、「恐怖」と「擁護」です。そして、その背景にある精神性は、前者はそんなものがあるのだとしたら、日本に住む人々が持つであろう日本人ならではの本性性の喪失であり、後者は、発展すること、特に資本主義的な発展を担保した科学性(理性)ということになります。
 黒人たちの場合は、否応なしに欧米社会を移動させられた結果の近代化であり、日本の場合は、近代化が向こうからやってきたという違いだったのですけれど、近代化の波に曝されたときの人々の反応は、多くの共通点があったように感じます。辛口の言い方になりますが、まさに物理的な移動は伴わないままに、精神がディアスポラ化したということになる気がします。その精神構造を単純に説明すると、日本人としてのアイデンティティの喪失に対する不安と同時に、そうした日本人としての本性性に対する誇りすらも商品の1つとして回収し貨幣の獲得に結びつけるような科学性に対する畏敬の念…。つまり、この両義性こそ、近代化の正体の1つであるということです。こうした構造を明らかにする切り口の1つとして、ギルロイさんは、黒人の音楽を取り上げたのです。こうした道具立てに芸術ならびに芸術活動を用いる意味を考えるには、例えば、ハイデガーの芸術論を参照する必要がありますが、今回は詳しくは触れません。一言だけ言えば、芸術活動とは、近代化/科学化などによって覆われてしまった作品が本来持つ存在としての本性性を顕在化する試みであるということです。

 そして自身の話に重ねれば、と言ってもここからの話を詳しく展開するとたいへんなことになるので、知りたい方はお気軽にお声をおかけください、機会がある時に説明します。何だか予告編みたいですが、僕の場合は、近代化/教育化などという視点も含みつつ、僕の二重意識の本質は、「スペック/本性性」と「理性/科学性」ということになり、この両義性をどのようにして統合し、その在り様を正統化すべきかという葛藤と恐怖の日々との闘いということになります。そして、こうした二重意識を超え現代を生き抜く術が学びであり、学び続けることが、代補の運動、すなわち脱構築であるということになり、さらに付け加えるとしたら、こうした二重意識(両義性)こそこれらの運動の原動力となっているのだと思われます。

 ということで、ほんのほんのさわりの話ではありましたが、若者との対話(学び)が、紛れてしまっていた僕の本道の意識を顕在化させるよいケース紹介となりました。蛇足ですが、こうした学びの実践は、当然、僕が持つスペック/本性性の意識をも活性化します。もう、お気づきの方もいらっしゃるかとは思います…。やはり、そこが僕の存在の意義なのかな~。と、また、揺らぐのでした。(^^)/

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嘘か真か

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 僕は、実際に現場に行き、そこに住み生活している人たちと対話をします。その数は、1人2人ではありません。累計で言えば、何十人、何百人となるでしょう。結果として、現場にいる人々の考えを知ると同時に、彼らの背景も知ることになります。さて、それが真実か否か…。確かに、僕に会う何百人の人が、全て同一のグループに所属をし、意図的に僕に嘘の情報を流したとすれば、僕は、簡単に騙されることになるでしょう…。もし、そうしたことを、一市民に対して、意図的に行おうとすれば、第一に莫大なコストがかかることが予想されます。さらに言えば、そうした嘘の情報を植え付けるほどの価値が僕にあるのだろうか?どう考えても、何十万の人に影響を及ぼせるほどの能力と可能性を僕は持ち合わせてはいません。したがって、現場に立つ僕をコストと時間をかけて騙すほどの価値はないはずと、僕は思いたい…。

 さて、話しは変わり、今、インターネット上などには、明らかに真実ではない情報が流れ、それを真実だと主張する人々が存在します。その多くの人が、可能な場合、せめて現場に行けばその真偽のほどは直ぐに分かるはずです。まぁ、実際には全ての人が現場に行けるわけではないので、せめてそうした場合には、映像等で流されている情報の判断には慎重であるべきです。
 しかしながら、一方でたとえ映像や音声が真実であったとしても、そうしたリソースを読み解き理解する力がなければどうしようもありません。先日もベタで流された会見映像を見たときその会見者の発言が、どの角度から見聞きしても僕にはAとしか理解できなかったことが、ネットの中では真反対のBという理解をする人々がいることを知りました。これはどうしたことなのでしょうか、確かに、同一の出来事でも見る角度によっては見え方が変わるので、1つの事象に対する様々な見方や考え方があってしかるべきですが…。
 ここで僕が思い浮かべる言葉は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」です。僕は、この言葉の意味を、「そう思っている自身の意識が、既に何者かによってすり込まれた意識ではないかと疑え」と言ったのではないかと理解しています。

 例えば、前にも言ったように、日米地位協定は明らかに日本の人々の主権を侵害しています。そうした場合、世界では、市民の中から主権回復運動が必ず起きます。それが、民主国家においてはふつうのことです。以前紹介したリテラシー運動なども、その最たるものです。ある国の価値観を、例えば、その国の経済的な意味での市場の拡大獲得を目的として文化や情報を、ネットワークに乗せ他の国へと流したとしたら、自分たちの文化を放棄することを引き替えとして、他の国の戦略的文化を受容するとしたら、それはある意味で、自分たちの主権的自立を失うことになります。したがって、そうした意図を理解した上で、ネット上で拡散するような文化的な情報などを理解する必要があるわけです。これが例に上げたリテラシー運動の問題意識の中心であり、まさに主権回復運動ならびに自己決定権を取り戻す運動の1つの姿です。
 そうした視点から見たとき、日本における本来のナショナルな主張などは、日米地位協定等の存在をきちんと認識した上で、侵害されている私たちの主権を取り戻そうという主張等を土台として、今、起きていることの真意を理解し批判すべきは批判をしていかなければならないと思うのですが、前提となる部分への言及は皆無のまま、表面的な部分だけに感情的な批判を加える様子には、愛国であるがゆえの主張であったとしても大きな違和感を感じざるを得ません。もし、ある権益者とか権力者が、意図的に市民の主権意識を隠蔽・脆弱化するように仕組んできたのだとしたら、まさにその成果が出ているのが現在の日本社会のような気がしてなりません。
 まぁ、話しが広がってしまったのですが、僕にとっては誰かが主張したり批判をするとき、その土台意識として日米地位協定のことや、国内に外国の軍隊が治外法権で駐屯していることなどをどう考えているか、その人の意見や視点の真正性を判断する材料として重要視しているわけです。こうした政治性を孕む話しは、自分たちの表現や主張や運動とは馴染まないとか、無縁だと思った人には、今一度、「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの言葉を贈りたいと思います。(^^)/

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評価するのは誰…

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 気がついたら、あっという間に前期の各授業も終了です。あとは、レポート読みと成績つけです。僕にとっての苦行は、なんと言っても成績つけです。一番難儀なことは、減点式に評価を決めることです。なので、僕は原則、加算式で評価を決めるようにしてます。簡単に言えば、できるようになったというか、新しく学びとってくれたことをきちんと評価するという視点です。あれもこれもできるようになったということで、ともかく、学習者自身がアピールというか表現できる機会を多く作り、達成できたことを積極的に評価するようにしています。

 確かに、評価では客観的な部分も必要かとは思いますが、基本はやはり自己評価だと思います。例えば、数学のいわゆる成績がよい人に、「あなたは何を学びましたか?」と尋ねたら、「2次方程式を解けるようになりました。」とか、「解の公式を覚えました。」などと答えるかもしれません。技術や知識を覚えることは、学んだことの一部かもしれませんが全部ではありませんし、ましてや、最も重要な点というわけでもありません。それも、誰かに与えられたものを暗記したとかというのだけでは、本来の学びとは言えないでしょう。こんな回答はあり得そうにはありませんが、理想としたら、「二次方程式の解き方の学習を通じて、こうした考えを引き出し、必要とした数学者たちの考え方を共有することができ、数学を学習することが、人々の暮らしにおける生きることの意味に繋がっているのを学ぶことができました。」。まぁ、あまりにも理想的過ぎますが…、こうした指摘には、学習する側だけではなく、教える側の問題、すなわち、数学を通じて何を教えるのかという、教える側の意識の問題も関係していることに気づかれたと思います。で、今回は評価の話なので、話を元に戻して、学びの本質は、いかに学習者自身が、十分に(イキイキと)学んだなという意識が持てたかにかかっています。
 となれば、学んだことに対する評価の中心は自己評価であることが自然です。ある条件を満たしたような1つの集団における相対的な評価は、その集団におけるある要素を中心とした位置であるとか、教える者の力量の差異を前提とする結果は、あくまでも参考的なものであって、学習者にとっての真の評価とはなり得ません。

 そこで最近の僕の授業では、授業の最終日に自己到達度テストを実施しています。テストという名称をつけるのは嫌なのですが、振り返りという意味も込め、とりあえずテストという名称をつけてはいます。内容は、今回の授業を通じて学習者自身が学びとったと思われることを様々な角度から再認識してもらうことと、全体として自身の学び度合いに評価(便宜上10段階評価)をつけてもらい、その理由も記載してもらうというものです。このテストの詳細はなかなか興味深いものになるのですが、紙面の関係上、1つだけ特徴を紹介しますと、僕とかがいい学びをしたな~、と思う学習者ほど、自己評価、例えば10段階評価の点が低く厳しい評価を自身に下すということです。この傾向は、なかなか興味深いでしょ…。なぜ、そうなるのか、僕なりの分析を書きだすと長くなるので、言えることを1つだけ、学ぶことの意味を理解している人ほど自己評価は厳しくなると言うことです。逆に言えば、まじめに勉強している人ほど、従来の評価基準が意識に染みこんでいるがゆえに、点数とかに出ない真の学びに興味を抱いたことを正当に評価できないということです。

 本来、生きることに直結している学びとは、充実し楽しいものであるはずなのに、点数などによる評価対象からはずされ続けてきた結果、本来の学びを自身で評価できなくなってきている…。ここにも日本の教育の課題とか問題が(自己決定権、主権等)潜んでいると思われるのですが、愚痴が過ぎるとよくないので、今日はここらへんまで…。では、また。

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