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再び、「イジメ」を考える

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 ここ2週間ほど、若者たちと「イジメ」のことや、「不登校」のことについて対話をしてきました。例えば、みんなの「イジメ」についての話しや主張を聴くと、いつもさかなクンさんの話を思いだします。彼は自分が中学生だった頃の体験を通じ、魚の世界のたとえ話を紹介します。

 メジナという魚を例にして、「メジナは、海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じ込めると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。」(朝日新聞 2006年12月2日)

 さかなクンさんの話は、たいへん示唆に富む話だと思います。イジメの話、特に、学校などという場において発生する「イジメ」という現象に対して、その解決というか対策として、多くの場合は、発生する事前であれ、事後であれ、いわば対処方法的な視点を中心としてイジメ対策なるものが語られます。確かに、緊急避難的な意味で、既に発生をしてしまっていることに対して速やかに対処を施すことは重要です。少し厳しい言い方になるかもしれませんが、実際、現在の日本の学校などで起きている「イジメ」という行為の多くが、犯罪的なものであることは明らかで、もしこれが欧米で起きるのであれば、法的処罰の対象となってもおかしくないと思われます。したがって、昔から僕が主張しているように、法的暴力には、法的暴力で対抗するしかないということです。

 このようにして、「イジメ」という現象に対して、その原動力となってしまう暴力には2つの種類があり、上で書いた法的暴力に対して、もう1つの暴力である彼らが人として持つであろう純粋(本性)な暴力についての対処方法については話しが長くなるので、ここでは喋りません。関心のある方は、僕の本でも読んでください。で、話を戻して、さかなクンさんの話を読んだとき、僕は、最初は、彼が言うところの水槽が学校なのかと思ったのですが…。最近の日本の状況、各地で起きている様々な社会事象(イジメ的な)を見るかぎりでは、どうやら、日本社会全体が水槽だったんだと気づかされました。考え方としては、社会が学校化したのか、それとも学校が社会化したのか…、そもそも、学校という場所がそうした役割を担わされているのか…。

 少なからず、こうした視点で、今一度、学校という場所で起きている「イジメ」という現象を見直すと、はっきりと言えることは2つあります。1つは、日本で発生している「イジメ」的な現象は、学校(構造的に、結果がより強力に吹き出す先端かもしれない。)を含め、社会から決して無くなることはない。言い換えれば、必ず生みだされ続ける。そして、もう1つは、既に、個人の責任とか個人の力では、解決しようのない事象であるということです。

 だとすれば、こうした事象を否応なく生みだし続ける社会の仕組みについて、しっかりと知る必要が出てくるわけのなのですが、ゆえに、僕などは、近現代資本主義の仕組みやら構造に関心が向き、マルクスなどが言う資本主義の、特に、人間の精神に与える影響について視線が注がれることになるわけなのです。そうした欧米などの思想や哲学を知れば知るほど分かることは、彼らは、発祥の地で長い歴史と経験があるだけに、こうした事態が社会に吹き出ることをその多くの者が予見しているし、それを防ぐために、対抗的な意味での法的暴力の強化(近代立憲主義)などをすすんで行っているわけなのですが…。未熟なというか、本来、価値観の違かった日本では、人々のそうした意識が弱く、というか、本当は、欧米的近代国家を模倣するのであれば、そこまで教育に織り込むべきだったと思うのですが…、先に、貨幣獲得第一主義となってしまったわけで…。結果として、社会の仕組みの結果、引き起こされている多くの問題事象も、個人の力や人間の情的(これも実際は、純粋な暴力の1つ)な力を持ってして、乗り越えさせようとしてしまっているわけです。

 ということで、ほんとうであれば、社会の仕組みや人々の価値観を変えないかぎり、「イジメ」のような現象はなくならないのです。でも、たぶん今の日本でそうした変革が直ぐに起きるかと言えば、それは期待薄です(教育の成果…)。あーぁ、なんかシニカルな方向にきてしまった…。これ以上続けているとどつぼにはまるので、いつものように強引にまとめて、でともかく、「イジメ」のような事態に対して、法的暴力で対抗する以外にはどうしたらよいのかと言えば、いじめっ子たちが追い込まれて、そうした行為を行っているのだとすれば、こちら側も同様の権利として、自分の生命の存在を脅かすような所から「逃げる」(昔、「逃散」という行為があったよ…。)という権利を行使してほしいと思うのです。当然、学ぶ権利の保障は、違う形できちんとしてもらったうえで…。でもそうか、やはり今の日本は、逃がさない社会なのかもね…、監視社会強化。(^^;)

「不登校」についての話は、また次回…。

※ 純粋な暴力は、生きるため(生命維持)に行使せざるを得ない暴力。そうした視点から見たら、人間がある状況に追い込まれて自己防衛のために本能的に行使するのだとすれば、生物機能的には正常に機能していると見られなくはない。

居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』<(_ _)>

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僕はいつでも片想い

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 僕はいつでも片想い…。

  私その日から あなたのとりこ 口には出せないどうして伝えよう 
  名前も知らない あなたへの One-sided Love~♪

 竹内まりやさんじゃないけれど、いつもこんな感じ…。
 僕の片想いは、なにも人だけじゃない。場所にも、モノにもコトにも気がつくといつも片想い…。片想いだからそうなるのか、それともそう想う傾向が強いから片想いとなってしまうのか…。そう想う傾向とは、若者たちには、ディアローグ的な対話を大切にしろと言っているのに、自身は、モノローグ的な対話が中心となる傾向が強いのです。本人は、よかれというか、人やモノやコトが崩壊するというか、降りかかるであろう危機を回避するためにはこうしなればいけないと、想うがゆえに考えるのだけれど…。それが、そうした傾向が強いだけに、自身とのモノローグの結果(内省的)であるだけに、それも深く濃く内省的な対話を重ねた結果、導き出された結論であるがゆえに、強く独我的なものとなってしまうのです。言い換えれば、独善的なものとなってしまうわけです。

 だから、そうした相手に対して、こんなに想っているのに、何も応えてくれないと勝手に思い、がっくりくることが多いわけです。でも、これは、僕が本性として持つものなのかもしれません。なので、こうした傾向はしょうがないとあきらめるようにしている今日この頃ではあるのですけれど…。

 まぁ、そう考えれば僕の片想い症候群はどうにか片がつくと言いますか、まさに抑制の効いた理性的な生き方となる訳です。しかし、ことはそうは簡単ではありません。やはり、僕はあるとき気づいてしまったんです。デカルトさんのように…。「我れ、想う故に我れあり」と…。これは、僕流の解釈ですけれど、デカルトさんは、そう考えている自身の想い自体が自身の本性的な想いなのかと疑ったわけで、自身が主体的に考えていると思っていた意識そのものが、既に他の何かによってすり込まれた意識なのではないかと疑えと言ったのです。

 つまり、僕が気づいたことは、どうやら想いというか、意識と考えられていることには、2つあるということ。1つは、ある後天的な外的作用によってすり込まれた、超自我化されてしまっているような、主体的な意識であると思い込まされてしまっているもの。そして、もう1つは真にというか、自然(本性)として涌き立ってくるものとしての意識というか想い。哲学的に言ったら、アプリオリな意識とでも言いましょうか…。そして問題は、僕の想いはどちらの意識から来るものなのかということなのです。
 ここからは、想像というか直観的なものです。自身が歳を取った結果、片想いの想いの結末を実際のシーンとして見る機会が多くなってきたのです。昔の直観は非科学的で論理的な説明がうまくできなかったのですが、時間をかけたことで帰納的に理解できるようになってきました。結論として、どうやら僕の片想いの想いは、本性的に未来を観える(捉える)がゆえに、危機回避機能として稼働しているぽいのです。なんだか、都市伝説のような話になってきました。だからと言って、僕の片想いは成就することはなく、多くのコト・モノは僕の想いとは違う方向へと向かうのです。あたかも、危機を迎入れるがごとく…。

 ここまで書いていて気づきました。僕の片想い症候群、自分ではディープなモノローグと考えていたけれど、これって究極の非対称性なんじゃないかと。つまり、究極なディアローグ的対話と言えるのじゃないかと…。そして、簡単には成就しないのですから、どこまでいっても両者の差異が延長されていく…。ありゃりゃ、差異の差延だ…。なんだか、自分の存在そのものが脱構築的。片想いをし続けることが代補の運動的。僕にとっての片想い症候群は、これが生きる原動力の1つになっているぽいです。世界や社会が、一層の分裂傾向を強める中、こうした意識が、僕の意識統合のための自己防衛機能であると思われます。と、自身の在り樣を正統化して終わります。んーっ、モノローグぽいな…。(>_<)

締め切りがせまってきました。
こちらも引き続き、よろしくお願いいたします。
居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』
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大切なもの

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皆さん、お元気でしょうか?
僕は、元気です。

桜の季節も気がつくとアッという間に過ぎ、
今は、新緑の季節で裏の山々は、様々な緑で覆われています。

皆様ももうご存じかとは思いますが、21世紀の日本は、既に十分に豊かになり、一家に一台であった電話も、今では一人一人に一台となりました。また、テレビのようなモノも、何でもできるパソコンなる機械に変わりまして、ちょちょいのちょいという感じで、家にいながら世界のモノを手に入れることができます。本当に便利な世の中になりました。お金さえあれば、何でもできます。

世界の価値は、万国共通のお金というモノを基準として、いかにたくさんのお金を獲得することができるかによって決まります。

そのものに、どんなに想いが込められていようが、どんなに世界の真実が埋め込まれていようが、お金を生みださないかぎり無価値です…。少し前までは、所によっては、お金には換えることのできない大切な価値を優先する人々も存在していましたが、豊かになった今の日本では、そんな少数派の人々は、まったくいなくなってしまいました。

本当の価値も意味も分からない、ただただお金の亡者となった人々…。
おっと愚痴が過ぎました。豊かな世界は、パラダイスです。
お金さえあれば、何でもできます。
お金、第一、大万歳!

雨の多い季節が近づいてまいりました。どうぞ自愛ください。
僕は、しばらくの間、内省の生活へと隠ることにいたします。
それでは、皆さん、さようなら。


 という感じで、誰と言うわけではありませんが、急に手紙を書きたくなりました。鎌倉代書屋さん(僕は鎌倉代教屋ですが…)ドラマに影響を受けたというところが、真相ではあります…。でも、このところ、確かに、「価値」ということをよく考えます。もう長らく続く資本主義の社会では、その昔から、貨幣への欲望を満たすものが大いに価値があるとされ、何かを表現したり世の中に働きかけるときも、まずは貨幣への変換能力ならびにそれに付随するコスト計算がその動機として優先されます。世界の歴史を眺めると、そうした視点が優先されたがゆえに、人類にとって不利益な出来事を引き出すことになった事例を多く見ることができます。

 それでも、世界には必ず貨幣的な価値ではない本当の価値を見いだすことができる人がいて、そんな人たちの自己犠牲によって、人類にとって大切な財産となるものが残されてきました。また、こうした真に価値があると思われるものの多くが、時間的な視点で見たとき、今日明日に直ぐにその価値を発揮するのではなく、何年かの長い時間をかけてその価値の正統性が証明されることが多いので、未来を見通してものを考えることができる人の存在も欠かせませんでした。

 と考え我が国の現況を振り返ると、何だかとても厳しく寂しくなります。今や、手紙にも書いたように、おそらくそれは、政策や教育の成果だとは思いますが、そんな人たちはまったくいなくなり、多くの人々は、明日明後日の生きるための貨幣を獲得するために悪戦苦闘を強いられています。結果として、貨幣的な価値はないが、犠牲を孕みつつも真に価値があるものを残そうなどいう奇特な人は我が国には、もはや皆無となったわけです。
 そもそも、真によいものにいわゆる貨幣中心主義的な付加価値を織り込もうすること自体がナンセンスだと思うのですが…。資本主義的な価値観の押しつけが行きすぎると、社会も人の精神もダメになることは明白です。したがって、健全な批判精神の1つであろう貨幣的な価値のないものにこそ価値があることを見出し、なんとか形にし残していこうとする心意気を意識的に守っていくことが大事だと、僕なんかは切に思うのです。そんな視点から考えると、やはり教育のシステムなどを前提から変革する必要があると思うのですが、教員養成の仕組み等も含めこうしたシステムを企画し運用する人自体が前述したような意識を持つ者たちのみとなっているというか、全てが自己増殖型の巨大な再生産システムとして稼働し続けているだけに、将来展望への厳しさは否定できないと思います。
 一方では、資本主義の原動力の1つであるイノベーションを担う人材等を嘱望しているのに、それらの育成・機会を自ら潰した上で、今まで通りで発展のためには戦争以外でのリセッション回復方法を提案していないところからも、まさに進歩のない繰り返しの世界を望んでいるのではないのかとさえ思えてきます。世の中の流れを換えることの出来ない無力な自分に、歯ぎしりな日々です。

 ことがある度に、そうしたものや人を拾い上げる力を持ち合わせていない僕は…。と嘆きながら、宝くじを買うのでした…。神様、僕にほんの少しでよいので、変革の力を…!結局、金なのか…、言語ゲーム…、我人生。 (>_<)

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ナショナルなもの

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 もう、だいぶ語りつくされたテーマではありますが…。最近の日本も、まさに、絵に書いたような節目的な社会状況を呈してきました…。グローバリゼーションとナショナリズムについては、いろいろな所で何度か話しているので重複してしまうのですが、繰り返し話し続けた方がいいような気がしているので、もう一度、少し書いておくことにします。

 まずは、資本主義というシステムの性格上、否応なしに繰り返されるグローバリゼーションとは、何であったのかということの再確認です。グローバル化なるものが、国境を越えて「人」「物」「お金」が動くことなのだとしたら、人類は既に何度か経験をしてきています。特に、近代資本主義の時代に入ってからは、その発展の原動力が「新市場開拓」と「イノベーション」であるいじょうは、その発展の原理から、グローバル化は避けては通れない道となっています。そうした視点から見たとき、今のところ世界は同じ歴史を繰り返していると言っていいでしょう。
 
 そしてより一層の資本主義的な発展を目論む世界、特に先進諸国は、否応なしにグローバル化を推し進めることになります。グローバル化を推し進めると、当然のように国内において、国内産業の衰退や失業等を引き起こします。所得の格差なども広がり、国民や業界団体からの反発も強まることでしょう。また、グローバル化が進めば、国境を飛び越えた市場化などが進むわけですから、市場の範囲を縛っていた国家という枠組みが邪魔になってきます。上述したことをまとめれば、グローバル化が進むと、民主主義国家内における少数派の、特に政治的な意見を無視せざるを得なくなるということ。言い換えれば、議会制民主主義を軽視する傾向が強まるということと、国家の枠組みを弱体化せざるを得なくなる、簡単に言えば、国家主権を弱めざるを得なくなるということです。

 そこで、90年代後半以降の日本の状況を具体的に見てみましょう。当然、より一層の資本主義的経済発展を目指す日本も、新自由主義的な政策をバックボーンとして、グローバル化を推し進めてきました。結果として、高度経済成長期をとうに終え曲がり角を曲がりきったところでの強力な資本主義政策の推進ですから、当然のように様々な分野において、そのひずみが顕在化していくことになります。例えば、地方における地域共同体の崩壊、すなわち、地域における自治権や自己決定権の剥奪、雇用の流動化、格差の拡大等です。強力な資本主義化が進めば進むほど、その性格上、様々な分野における社会構造上のいわば分裂がここ日本でも否応なしに進んでいます。こうした社会構造的な分裂傾向は、自殺者数の高止まりや差別社会化等、国民の精神をも分裂させつつあります。
 こうした避けることのできない状況は、政治の世界においても前述したような、議会制民主主義(近代立憲主義等)の軽視化や国家主権・国民主権の弱体化による基本的人権等の後退化などを引き起こしています。

 しかしながら、権力者側は、自分たちの持つ既得権益等を保持し続けるためには社会や国民精神の分裂化が進もうがおかまいなく、経済的発展を一層推し進めなくてはなりません。したがって、実際には分裂化の先延ばしでしかないとは思いますが、国家や国民精神の再統合のための策を講じることになります。発展による経済的利益が潤沢のときであれば、国家による所得の再分配等の施策を実行することで統合を図るところなのですが、分配するお金がない今は、お金をかけずに国家などの分裂を先延ばしするしか、方法がない状況になっているわけです。

 その方法の1つがナショナリズムなのです。本来のナショナリズムとは郷土愛のような、生まれ故郷などに対する純朴な愛情であったものが、国家再統合のためのツールの1つとして、まさに政治利用される傾向を強めているのです。政治的な意味でのナショナリズムは、強まるであろう保護主義的な傾向ともあいまって、今後に現れるであろう社会状況によっては、最終的に為政者たちが選択するかもしれない政策の正当化に利用されるというか、既にされてきました。その歴史的選択とは、戦争でリセットされることによる再市場化やイノベーションの再強化です。

 ということで、今だからこそナショナルなものに対しては、十分な注意が必要な時代だと言えるでしょう。人類は、今度こそ貨幣的な発展だけを優先するのではなく、精神的・意識的な発展をも大事にする選択をしてもらいたいものです。

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批判的精神

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 首相が改憲について、「機は熟した」と言ったそうですが…。
 先の選挙において、自民党の得票率は比例区において約36%で、得票数は約2,000万票です。日本の有権者数は、大体1億400万人ぐらいなので、有権者数全体から見たら20%ぐらいの人数比になるでしょうか…。人口全体から言えば、さらに小さくなって15%ぐらいになるでしょうか…。まぁ、単純に自民党支持の方々が全員憲法の改憲に賛成だとしても全国民の15%程度、他の人々を入れたとしても、現在、憲法を変えることに賛成の国民が、過半数、すなわち機が熟すほどの数になったとは考えづらいと思います。なので、首相が持つイメージと実際は、少々ズレがあると言ってよいと思います。で、僕が気になるのは、そこだけではなく、今、政治的には、国会における議員数において過半数以上を占める自民党の首相を含む皆さんが、それこそ国民全体の7分の1程度の支持を得られているからといって国民全体が、もしくは多数の者が賛成しているのだと単純には考えてほしくないな~、という点です。
 ここらへんのことをしっかりと理解していない場面が、最近の政治局面では多く見られます。 例えば、一昨年成立した安保法案などでも、成立後も説明をしていくと言ったり、米国の戦争に巻き込まれるようなことは絶対ないなどと言ったにもかかわらず、その後の説明審議は尽くされてはいないようですし、今年に入ってからは、米国の東アジア政策に引きずられる結果、米国の軍事作戦支援に自動的に参加をしています。今までであれば、憲法9条を盾として、米国の軍事作戦などの支援を単純に行うことは難しかったはずです。ましてや、米国と対峙している国は、その攻撃目標は在日米軍基地であるとはっきりと言っているいじょうは、日本の安全保障を考える上では、米国の軍事的な作戦に無条件で乗っかる前に、事前に日本としてやるべきことは、まだまだたくさんあると思うのは、僕だけでしょうか。
 安保法制のときも、日本の安全保障を考えその抑止力を強化するためには、法律を作らざるを得ないのだと主張していました。しかしながら、最近の現実を見ると、政府の言う安全保障は、戦争をやることが前提で、戦争を回避するための方策ではなく、戦争をすることを不可避とした上での安全保障であったり、軍事力頼みの抑止力であることが明白です。戦後の日本は、敗戦の反省に立ちそうした世界観を否定したことから始まったのではないでしょうか…。ある意味で、国会議員数の数だけを見て、自分たちの考えが十分に支持されているのだと考えるのだとしたら、いつか来た道の繰り返しになっているように見えてしまいます。いや、むしろ近代民主主義的なシステムは、その運用において謙虚な注意力を、特に、与党となるような政党がしっかりと持たないと、独裁性などが知らず知らすのうちに強まる傾向があると、中でも政治に関わる方々が十分に理解するべきではないかと思います。そして、それゆえの近代立憲主義であったはずなのですが…。

 しかし一方で、そうした政権に対する支持率が高止まっている状態を見るに、当事者となったときのことだとか、何年か先の変化についてだとか、起きている事象の全体を見渡したときの見え方の違いだとか、過去の歴史と照らし合わせたときだとか、もっと単純に言えば、前提性を疑うような意識や視点が、年を追うごとに社会全体として希薄になっているように感じます。この傾向の基底にある問題は、国民における想像力の低下にあるような気がしています。が、人間にとっての想像力は、生きていく上に必要不可欠な資質であるがゆえに、すべての人がそもそも持っているものだとも言えるので、正確に言えば、想像力を阻害するような要因が強化されていると言った方がよいかもしれません。そうした傾向が強まる原因として、資本主義というシステムが持つ構造的な問題が関わっているのは明白ですが、説明が長くなるので今回は深入りしません。ともかく、そうした傾向に対して意識的に抑制をかけないと、想像力は自然と低下してしまうということは知っておく必要があると思います。ゆえに、教育の問題と密接な関係があるのですが、それも別の機会に…。

 長くなってしまったので、少々無理矢理のまとめに…。今回指摘をしたように、最近は、意図的かどうかは別として、実際、大きな権力を有しているものが、様々な手段を利用し自分たちに有利な空気感を社会に作り、多くの人々の想像力の低下をよいことに、自分たち中心の世界の押しつけ傾向を強めているように感じます。その風潮にたいして、僕たち市民はどうすればよいのでしょうか…。それは、180度否定の反的な意識を持つまでもなく、せめて批判的な意識を土台として、様々な社会的事象を考えてみるという心構えが、特に、今の日本には必要だと思います。ゆえに、ほんの少しでよいので、歴史や哲学や思想などを学ぶ試みを実践しましょう。(^^)/

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空気感

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 最近の報道などで、「教育勅語」であるとか、「道徳」とかという教育関連の単語を目にしたとき、僕は直ぐに教育基本法のことを思い起こしました。教育基本法は、日本国憲法に則り、戦後日本の教育に関する根本的で基本的なことを定めた重要な法律でした。その教育基本法が2006年の第1次安倍政権のときに変えられたのです。それから、約10年が経ちましたが、そのときに旧教育基本法から変えられた部分をいくつか振り返ってみました。丁寧に全部の箇所を比較したいところではありますが、文量も多くなってしまうので、今回は、前文を中心に再確認したいと思います。

 前文で書き換えられ、加えられた文書において目につく言葉は、「公共」・「伝統」という言葉です。旧前文と差し替えられた前文の全体の印象は、旧前文においては、戦前の教育が、国家のための国民を作るのが第一目的であったことを深く反省し、個人における人格の完成を目標とすることを明確にしたものであったのに比べ、だいぶ再び、個人から国家中心主義的なものへと回帰しているように感じます。そうした印象を与えるキーワードが、前述した「公共」とか「伝統」という言葉です。
 一見すると、これらの言葉に差し替えられたからと言って問題はなさそうに思うかもしれません。しかし、ここで注意が必要なことは、例えば、「公共」という言葉の意味が、いわゆる近代民主主義的な定義で使われているのであればまだしも、ときの政権、すなわちそれを引き継いでいる現在の政権の性格から考えて、意識的か無意識的にかは判断できませんが、その後、明らかにされた彼らの憲法草案からも分かるように、近代立憲主義などを理解し、当然としての前提である基本的人権などの保障を担保した上での「公共」という言葉の使い方ではなさそうな点です。ここでの「公共」が意味するものは、国民の国家ではなく、国家の国民であるところの「公共」です。こうした近代民主主義の原則を無視した公共観では、むしろ戦前回帰であると言わざるを得ません。また、「伝統」と言ったときも、単なる情緒的に日本的であると思われてきた、例えば、神国日本のような戦前からある単なる本質主義的なものへの回帰であると予想されてしまいます。しかしながら現実には、そうした考え方を差し込まれた新教育基本法が施行されて10年が経ったのです

 まず、ここで僕が驚いたというか、気づかされたことは、社会の原則などを決める重要な法などが、そうした原則の変更等を意図し、ときの政権などに変えられると、静かにかつ確実に社会全体に浸透し、国民があまり意識しないうちに前提が変えられ、知らないうちに変えられた前提が当たり前となってしまう点です。昨今の教育に関するトピックは、このような操作の成果であり、そんな国家が作り出した空気感を、まさに国民の側が忖度した結果であるような気がします。どちらにしても、先行した誰かが特殊な考え方として注目したのではなく、既に先行している時の政府の政策的意図の成果の1つとして顕在化したものであったのでしょう。こうした視点から見れば、大阪の某学校と政府との関係性がよく分かります。そして、その時は、たいして影響はないだろうと考えられることも、国家の在り樣などの原則に関わるような法の変更は、時を経て静かに確実に社会の原則を変えるということ。すなわち、悪用する政権の登場の場合も含め、後に悪法に変えてしまったことを悔やんでも遅いということで、国の基本法などが変更されるときは十分に注意が必要だということです。残念なことに、既に変わってしまったものも多くありますが…。

 前述したような出来事を少し離れて見ると、次のようなことも浮かび上がります。それは、前述したような「公共」だとか「伝統」という言葉を国の原則法に取り入れざるを得なくなっているのではないかとする見方です。言い方を換えると、資本主義などという社会システムを採用しているいじょうは、回帰とかというロマン的なものではなく、構造的に同様のルーティンを繰り返すということです。厳しい言い方になりますが、システムを変更しないかぎり、選択の余地のないルーティンの繰り返しであるということです。証拠に、国民の価値観において、「公共」だとか、「伝統」と言ったものをすり込まざるを得なくなった背景として、資本主義というシステムが構造的に持つ課題であろう社会の個体化やグローバル化に対処するためのものであることは明らかです。
 そして、特に国家のこうした在り樣は、何も新しいことではなく、先の戦争時と何も変わらない同様のプロセスの繰り返しの過程にあると言えるでしょう。このような流れがある意味で、近代国民国家の一般的な流れなのだとしたら、特に、日本は厳しいと言わざるを得ません。それは、経験した歴史を変えようとする意識が国家にも国民にも希薄だからです。中でも政府の無策というか無自覚ぶりは、日本のお家芸的なものです。本来であれば率先しなくてはいけない、国民・国家の意識の分裂を避けるように考慮した新しい市場の開拓であるとか、少なからず、多少保護主義的傾向には偏りますが国内市場や内需等の活性化だとか、イノベーションへの投資や人材の育成だとか…、そうしたことにはあまり力を入れることなく、従来というか旧来型の対処的政策である精神性を中心としたようなナショナリズムの再強化などでは、何か新しいことが起きようがありません。ましてや、戦争に加担ができるようになった今では、経済的発展の名のもと、何もしなければ自動的にいつか来た道です。おそらく、システム上、1つの集団や個人に大きな権力を長く持たせたりすると権力側が暴走することを失敗も含め経験をした人々は、権力側に対して近代立憲主義のような考えを確立し絶えず抑制的に振る舞おうとしたわけですが、残念なことに日本では、そうした考えは政府側にも国民側にも、未だ広くは定着していません。権力者側と一般国民との間にある非対称性についても、理解している人が少ないのが現状です。

 と、だんだんグダグダになってきました…。(>_<)
 ともかく、失敗を繰り返さないようにするためにも、たとえ微力であっても自分たちの責任において、変革のためのディアローグ的対話を絶やしてはいけないと肝に銘じつつ、代補の運動の場を開き続けたいとこころから思うのでした。重ね重ねのお願いで誠に恐縮ですが、変わらぬご支援/シェアをよろしくお願いいたします。

〈居場所型BookCafe
『STUDIO鎌倉第四次空間』〉
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居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』

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 いつもお願いばかりで恐縮なのですが…。このまま引退でもいいかなと思っていましたところ、CAMPFIREさんに背中を押していただけたので、もう少しチャレンジしてみることにしました。以下、ご挨拶まで…。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私は、学びの支援の場としての居場所を34年間運営してきました。私自身が様々な学びを経験させてもらった30余年でした。たゆまぬ活動を通じ、今、さらなる地域における学び支援の1つの形が見えてきました。ディアローグ的対話を中心とした学びの場として、哲学・思想・沖縄関連の本を揃えた『居場所型のBookCafe』を開くことにしました。1つの希望を形にするため、参加者であると同時に支援者としてのお力添えをこころからお願いする次第です。多くの方にお声かけをよろしくお願いいたします。<(_ _)>

                         〈CAMPFIRE〉
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自分のことは自分で決める

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 沖縄に通うようになって、沖縄に来るとよく空を見るようになった。理由の1つには、沖縄の空はすごく表情がある。色や雲や風など、ヤマトでは見たことのないドラマチックな変化を目の当たりにすることができるので、見ててまったく飽きることがない。一番の見方は、畳の部屋に寝転がり仰向けになったまま、空を眺める体勢が好きだ。
 そして、もう1つの理由は、飛行機がよく飛ぶ、それも低空で…。爆音がする度に空を見上げると、どう見ても旅客機や報道などのタイプとは違った飛行機類が飛びかっている。当然のように、その種類の大部分が土地柄、軍用機それも米軍機であることは想像がついた。好奇心から、そんな飛行機やヘリコプターを見る機会がある度にどんな機種なのかとなんとはなしに調べ確認するようになった。すると、いろいろなこと分かってきた。短距離しか飛べないヘリコプターなどの場合は、それが訓練で、どんなことを目的としているのか、そのヘリコプターの機種が分かると想像がつく。一方で、長距離を飛べる中型以上のジェット機系が飛び交うようになると、日本の周辺をはじめとする外国で何かが起きていることが推察された。限定というか特定できるものもある。例えば、嘉手納基地に所属している情報収集系、それも大気中の放射線物質を調査する器材を搭載している機体が飛んでいるときは、近隣の国で核実験が行われたのではないかと予想がつくのである。そんな経験から、沖縄の空は美しく神々しい世界そのものなのに、その世界の足下は沖縄の空ではなく、何か薄い膜が張られているような寂しさを感じる。

 さて、そんな経験をしつつ、神奈川に帰る。沖縄で空を眺める習慣のついた僕は、神奈川に戻ってからも空を眺めるようになった。それまでは、神奈川の空はずーっと遠くにあって、雲も色も遠くかすれているように僕の目には映っていたし、空を飛ぶ飛行機などは、空と地上の境を飛ぶジェットストリームの世界で、飛行機雲は見えても何の機種だかは検討もつかない存在だった。そして、ヘリコプターの場合は、住んでいる場所が海岸に近い関係で、海難救助に向かう海上保安庁のものばかりに違いないと思い込んでいた。でも、爆音がすると空を眺める癖のついた僕は、神奈川でもその度に空を見る。すると、想像以上に頻繁に、それも低空で飛行機やヘリコプターが飛んでいることに気づくようになる。そして、その多くが、沖縄の空で見たものと同様のものであった…、知らなかったし気づかなかった。遅らばせながら、ちょっと調べた。神奈川の空は、日本の空ではなかった。その空は、その大部分が米軍の空だったのだ(横田ラプコン)。うかつにもほどがある。沖縄にある問題は、神奈川の問題でもあったのだ。さらに言えば、日本全体の問題だったのだ。神奈川の空を見ていても、そこを飛び交う米軍の飛行機やヘリコプターから、世界の情勢をはじめいろいろなことが分かる。

 そんな話をすると、若い人たちから、それの何が問題なんですかと突っ込まれる。既に多くの人が、見えない占領状態を国の安全保障におけるギブアンドテークの関係から自明なものだと思い込まされている。不平等であることが気にならなくさせられている。問題、問題の本質は…。確かに、軍用機による事故の発生、これらも当然大きい。沖縄でも神奈川でも起きている。すると、飛行機の事故は、軍用機でなくても起きると反論がある。この問題に関してだけ具体的に問題を指摘すれば、1つとして軍用機の事故はその原因等を含め、情報は軍の機密により全てが公開されるわけではない。それが、兵器の弱点とかであれば当然のことだ。そして、特に在日米軍に限って言えば、日本の空のルール、例えば航空法に従う必要はないということだ。そのことの1例としては、沖縄でも神奈川でも、米軍の航空機・ヘリコプター等が市街地であっても、思った以上に低い高度を飛んでいる。
 そんな見える問題もさることながら、忘れてはいけない大きな問題は、僕たちの主権が侵害されていることだと思う。「主権の侵害!? それがどうした、今だって俺たちは、不自由なくふつうに暮らしているぜ、主権が侵害されていようがいまいが俺たちには関係ない…。」。それで、本当にいいんだろうか…。僕たちの自由や基本的人権や社会権などがないがしろにされている。残念ながら、こうした意識的傾向は、在日米軍の在り様にも無関心であるのと同様に、日本の様々な問題に波及している。「独立と自由ほど尊いものはない。」と言って、ベトナムのホーチミンたちはアメリカと戦った。そのアメリカだって、独立と自由をかけて戦った経験を持つ。独立と自由によって、その国の国民の主権は守られる。つまり自律的で自由な存在としての人となることができるわけである。自律的で自由な存在とは、生命(イノチ)一般の担い手として承認されるということだ。大げさな言い方かもしれないが、生きることの意味がそこにある。

 だとすれば、今の日本には、そういう意味の独立も自由もない。つまり、人が人として存在するための意識というか精神を欠いたまま、ただなんとなく存在している人々の群れがあるだけの状態のように見える。自分のことは自分で決める。要はとてもシンプルな意識だと思う。今の日本は、自分のことを自分では決められない(決められないようにされている。)人々の集団となってしまっている。独立と自由を取り戻そう。言い方を換えれば、「自己決定権」を取り戻そうということだ。その点に関して言えば、沖縄の人々は、そのことにとうの昔に気づいている。空を眺めることは、独立と自由への道に繋がっているのかもしれない。

 どうにも生き辛くなったときは、深呼吸をしながら、空を眺めよう。
 希望に繋がる見えない道が観えるかもしれない…。

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ゴジラはなぜ日本に

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 ゴジラはいつも、なぜ、日本に来るのか…。不思議なので、少し考えてみました。

 まず、直ぐに思い浮かんだことは、元々は鰻なんじゃ…。今回のゴジラを見ても、最初、大人になる前のゴジラは、鰻のような顔つきだと思いました。南方のどこかで生まれた鰻が、日本の河に戻ってくるように、世代が変わる度に日本へと戻ってくる。

 次に考えたのが、好物がある。で、何が好物なのか…。それが主食というわけにはいかないとは思いますが、放射性物質、イメージ的には、それが天然物というよりは、廃棄物といいますか、使った後に出る系のやつですね。これがあるところをゴジラは本能的に目指す。

 これだけの要素で物語を組み立てると、元々、日本周辺を生活圏としていた鰻が、回遊し南方海域で卵を産み孵化するという過程において、卵の段階か稚魚の段階かは不明ですが、核実験の影響を受け突然変異し、成長するにつれ、大人になるために必要な高エネルギー源である放射性廃棄物のある所に回帰する。この物語は、今回のゴジラにとってはそれなりに説得力があります。
 それは、どういうことかというと、フクイチの事故により、北関東全域に降り注いだ放射性物質は、その後、その多くが風雨によって河川へと運ばれ、一部はその河口流域である東京湾に堆積、また、一部は太平洋へと流れ出たことでしょう。
 そうです、鰻が故郷の河川を目指すよう、自分の故郷の水の匂いというか、組成をかぎつけ遡ってくるように、ゴジラも長く帯のように繋がる放射性物質の流れのより上流を目指し戻ってきたことになるのではないでしょうか…。そうした意味では、まったくもって、3.11後の日本の人々にとっての警告ということになります。おそらく、北関東や東京の汚染は一様に残り、東京湾等に点在するであろうホットスポットでは、高濃度の汚染が定着しつつあることでしょう。これといった落としどころのないリアルな話です。

 この話は、もう1つ裏の話にも関係しているかもしれません。それは、アメリカとの関係です。今回の映画でも出てきましたが、アメリカというか米軍は、日本に世界のためとはいうものの、3度核爆弾を落とすことを躊躇しません。その意味は、アクチュアルな話です。ゴジラ誕生の契機ともなった、南洋諸島での核実験に際し、アメリカは、季節風の関係では、日本にも多くの放射性ブルームが到達することを予想していました。そうした放射性物質が、人間にどのような影響を及ぼすのか、広島・長崎の調査分析から、核爆弾爆発後の放射性ブルームの影響、特に内部被曝の影響は無視できないことに感づいていたアメリカ(米軍)は、日本の各地にモニタリング施設を作り放射線濃度等を観測します。はからずもそうした施設がフクイチの事故のときには役に立ち、事故後いち早く米国関係者は、80㎞待避を実施したわけです。つまり、日本は今でも占領地というか、軍事的戦略の実験地であり、その扱いが変わったわけではないということです。この関連では、いろいろと言いたくなる場面は多々ありましたね~、石原某が演じていた米軍高級将校(大統領特使)?、まさにSOFAステータス!!! こうした意味では、ゴジラは占領下の日本を思い出させ、自主独立を促す革命児なのかもしれません。
 
 では、次に象徴的な意味で、ゴジラが日本に来る意味を世界観的に考えてみたいと思います。何年毎というか、季節毎に日本にやって来るゴジラはまるで台風のようですね。地震保険ならず怪獣保険っていうのが、日本には必要な感じではあります。そんな度々のゴジラの来襲を見ていると、直ぐに思い出すのは、ベンヤミンのことです。特に、彼が書いた「暴力批判論」は、ゴジラ論として読み替えることが可能なのではないかと思わせます。おそらく、ゴジラは、当著に出てくる神的暴力だと思われるからです。もし、ベンヤミンがゴジラの存在を知っていたら、神的暴力の解説の1つとしてゴジラの来襲を上げたことでしょう。ゴジラの存在を知らなかった彼は、神的暴力の規範的例として、コラの一党に対する神の裁き上げます。彼によれば、神的暴力とは、コラの一党に対する神の報復そのものだと言うのです。一瞬にして全てを焼き尽くす紅蓮の炎のような報復、それこそが神的暴力そのもだと…。やはり、ゴジラが口から放射熱線を吐くとき、日本の人々よ目を覚ませと活を入れられるように感じるのは私だけでしょうか…。ともかく、ゴジラの来襲は、ベンヤミンが言うところの自然の摂理による神的暴力だとすると、彼のいう神的暴力の特徴とゴジラの所作による特徴というか意味が重なります。

 「暴力批判論」にある神的暴力の特徴を上げると、「あらゆる領域において神話には神が対立するように、神話的暴力には神的暴力が対立する。しかもこの対立は、神的暴力を、あらゆる点において神話的暴力に対するものとして特徴づける。神話的暴力が法措定的であるのに対して、神的暴力は法破壊的であり、神話的暴力が境界を措定するのに対して、神的暴力は限りなく破壊し、神話的暴力が罪を負わせると同時に贖罪を負わせるものであるのに対して、神的暴力は罪を浄めるものであり、神話的暴力が脅かすものであるのに対して、神的暴力は有無を言わせぬものであり、神話的暴力が血なまぐさいものであるのに対して、神的暴力は無血的に致死的なものである。」(ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」『ドイツ悲劇の根源 下』浅井健二郎訳、筑摩書房、1999年、270頁)と書かれています。文中に出てくる神的暴力に対立するもう1つの暴力である神話的暴力とは、法的暴力のことを指し、私たちの日常、すなわち、国民国家内における世界は法的暴力の圏内ということになります。神話的暴力を簡単に言えば、後から人間の手によって作り出されたり規定された暴力ということになります。それに対して神的暴力は、どこから来て何が目的で行使されるのか、人間の思考の中では想像できない、まさに人間の想定外の力ということになります。映画の中でもゴジラの存在は、人間社会における法的暴力、すなわち法規定では一切を規定することができないものとなっています。そして、人間が自分たちのために作り上げた法的暴力の世界(国境とか)にゴジラはいとも簡単に侵入し、法的暴力(憲法をはじめとする法律とか)を無力化していきました。映画は最初から最後まで、神話的暴力の行使者である国家と神的暴力の主体であるゴジラとの闘いが、様々の領域において繰り広げられていたわけです。

 ベンヤミンはさらに言います「神話的な暴力は、たんなる生に対する、暴力それ自体のための、血の暴力であり、神的な暴力は、あらゆる生に対する、生ある者のための、純粋な暴力である。神話的暴力は犠牲を要求し、神的暴力は犠牲を受け入れる。」(同上、271頁)「たんなる生」とは、生きる死ぬというとき、多くの人間が直ぐに思い浮かべるであろう、一代一代の生命を指します。それに対して、「あらゆる生」とは、地球というか宇宙において生命(いのち)が誕生してから、今まで、ただの一度も途絶えることなく続いてきた生命(いのち)一般を指すものです。映画で言えば、より強力な軍事兵器を行使して、今だけを生きている自分たちの生命を守ろうとする行為それ自体が神話的暴力と言えます。一方で、自己の生命を神話的暴力の行使者たちに差し出すことによって、彼らがしがみつき正当化してきた掟が、何ら根拠のないものであることに気づかせると同時に、内省させ自分たちの存在とは生命一般の根拠によって保障されているのを理解させることで、彼らの罪を浄めようする…。やはり、ゴジラは神的暴力の主体であることがこのことからも明らかになるわけです。映画の最後の場面において動かぬゴジラと人間たちのやりとりは、価値観が転倒してしまった近現代社会のあり様を元に戻すための代補的運動となるのです。そして、この代補的な運動は、劇中において繰り返されるゴジラのテーマ、おそらくその込められた隠喩的な意味の繰り返しと共に差延されていくのです。

 「天災は忘れた頃に来る」、地震学者であった寺田寅彦さんが言ったといわれているこの言葉は深いです。天災、すなわち神的な暴力の1つであると思われます。おそらく、人間が驕り高ぶり生命一般の根拠をないがしろにし続けると、人間世界は、宇宙(自然)の摂理によって生かされているという正統的なあり様に、神的暴力の発動によって自動的に引き戻されるということを意味しているのです。特に、日本という国は、そうした摂理の繰り返しであると言えるでしょう。つまり、日本の社会が物質的欲望などばかりを優先し、人としての存在の意味を見失い続けると神的暴力が自動的に発動され、私たちの頭に鉄槌が下されるのです。実は、昔から日本の人は、そのことをよく知っていたと思われます。ときに、「地震、雷、火事、親父(大嵐・台風のことです)」と言われます。これは、四大神的暴力か…、なんて思ったりします。ということで、今年、ゴジラが戻ってきたのは、1つの警告であると気づいてほしいものです。

 要注意!!!「ゴジラは忘れた頃にやって来る」。

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空のむこう

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 最近、若者たちに「自明性を疑え」といいつつ、僕たちは何を目指すべきなのかと、今さらながらよく考えます。

 これまた今さらながらだけど、マルクス先生などを読み返すと、今の日本の状況は先生の言ったこととその多くが重なります。例えば、資本主義社会が経済的な発展を目指し続けると、社会的な格差や人々の精神的疎外が大きくなる等…。結果として、これまた社会はこうした状況を止揚すべく、ある意味で自動的に変革というか、否応なしに社会の構造が変化せざるを得ないという。先生の言うところのより一層社会化された社会とは、生きるための平等とか自由が保証された社会…。こうした社会のことを、後の人々が言ったような、社会主義的な社会というのかもしれません。

 彼のこの展望のミソは、より一層の効率的な経済発展を目指した資本主義政策を推し進めるなら、自動的にこうした社会構造に変化せざるを得ないとしているところです。でも、こうしたある意味で平等で自由な社会は、一部の既得権益や独占的資本を持っている人たちにしてみれば、自分たちの持つ権利や資本を手放し再分配を強制するものとなります。したがって、そうした一部の人たちは、たぶん資本主義経済がより一層発展し市民にとって平等な社会になることを拒むに違いありません。その拒否の仕方とは、おそらく高度な資本主義的な発展がある一定の段階まで到達したら、一度リセットさせ、それ以上は発展させないというやり方となるでしょう。

 いわゆる資本主義発展の両輪が、「新市場の開拓」と「技術革新」にあるのだとしたら、発展を停滞もしくは部分的に差し戻し、偽装的な発展状況を再び作りだすためには、飽和した市場の再編成ならびに、日常生活では直ぐには必要ないけれど、いかにも市場における優位性を誇れるような特殊な分野の技術革新を促すことになるでしょう。つまり、より一層の社会化された社会への流れを阻止するためには、おそらく、定期的に戦争を起こすことが必須となるような気がします。権益や資本を持つ一部の権力者たちは、既に本人の自覚がないままの自動操縦かもしれませんが、彼らは使い勝手のよい形に構築された教育とかメディアだとかという社会システムを利用し、来たるべくリセットをするための戦争準備を怠っていないということになるのかもしれません。言い換えれば、戦争を起こすことの正当性を担保するための準備を着々と進めている、と言ってもいいのかもしれません。いざ戦争になったとき、国民の多くがそれではしかたがないと、戦争をすることに理解をしめすような状況を作るということです。

 そんなことを考えていると、自明性を疑ったうえで、僕たちは当面、何をすべきかと想いを巡らせば、とにかく戦争に繋がるような流れは、どのようなことであれ阻止をするという一点につきるのではないかと強く感じているこの頃です。

 内容が古くなってしまいましたが、以前書いた教育にまつわる「多様性」について考えた論考です。興味のある方はどうぞお読みください。

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