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嘘か真か

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 僕は、実際に現場に行き、そこに住み生活している人たちと対話をします。その数は、1人2人ではありません。累計で言えば、何十人、何百人となるでしょう。結果として、現場にいる人々の考えを知ると同時に、彼らの背景も知ることになります。さて、それが真実か否か…。確かに、僕に会う何百人の人が、全て同一のグループに所属をし、意図的に僕に嘘の情報を流したとすれば、僕は、簡単に騙されることになるでしょう…。もし、そうしたことを、一市民に対して、意図的に行おうとすれば、第一に莫大なコストがかかることが予想されます。さらに言えば、そうした嘘の情報を植え付けるほどの価値が僕にあるのだろうか?どう考えても、何十万の人に影響を及ぼせるほどの能力と可能性を僕は持ち合わせてはいません。したがって、現場に立つ僕をコストと時間をかけて騙すほどの価値はないはずと、僕は思いたい…。

 さて、話しは変わり、今、インターネット上などには、明らかに真実ではない情報が流れ、それを真実だと主張する人々が存在します。その多くの人が、可能な場合、せめて現場に行けばその真偽のほどは直ぐに分かるはずです。まぁ、実際には全ての人が現場に行けるわけではないので、せめてそうした場合には、映像等で流されている情報の判断には慎重であるべきです。
 しかしながら、一方でたとえ映像や音声が真実であったとしても、そうしたリソースを読み解き理解する力がなければどうしようもありません。先日もベタで流された会見映像を見たときその会見者の発言が、どの角度から見聞きしても僕にはAとしか理解できなかったことが、ネットの中では真反対のBという理解をする人々がいることを知りました。これはどうしたことなのでしょうか、確かに、同一の出来事でも見る角度によっては見え方が変わるので、1つの事象に対する様々な見方や考え方があってしかるべきですが…。
 ここで僕が思い浮かべる言葉は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」です。僕は、この言葉の意味を、「そう思っている自身の意識が、既に何者かによってすり込まれた意識ではないかと疑え」と言ったのではないかと理解しています。

 例えば、前にも言ったように、日米地位協定は明らかに日本の人々の主権を侵害しています。そうした場合、世界では、市民の中から主権回復運動が必ず起きます。それが、民主国家においてはふつうのことです。以前紹介したリテラシー運動なども、その最たるものです。ある国の価値観を、例えば、その国の経済的な意味での市場の拡大獲得を目的として文化や情報を、ネットワークに乗せ他の国へと流したとしたら、自分たちの文化を放棄することを引き替えとして、他の国の戦略的文化を受容するとしたら、それはある意味で、自分たちの主権的自立を失うことになります。したがって、そうした意図を理解した上で、ネット上で拡散するような文化的な情報などを理解する必要があるわけです。これが例に上げたリテラシー運動の問題意識の中心であり、まさに主権回復運動ならびに自己決定権を取り戻す運動の1つの姿です。
 そうした視点から見たとき、日本における本来のナショナルな主張などは、日米地位協定等の存在をきちんと認識した上で、侵害されている私たちの主権を取り戻そうという主張等を土台として、今、起きていることの真意を理解し批判すべきは批判をしていかなければならないと思うのですが、前提となる部分への言及は皆無のまま、表面的な部分だけに感情的な批判を加える様子には、愛国であるがゆえの主張であったとしても大きな違和感を感じざるを得ません。もし、ある権益者とか権力者が、意図的に市民の主権意識を隠蔽・脆弱化するように仕組んできたのだとしたら、まさにその成果が出ているのが現在の日本社会のような気がしてなりません。
 まぁ、話しが広がってしまったのですが、僕にとっては誰かが主張したり批判をするとき、その土台意識として日米地位協定のことや、国内に外国の軍隊が治外法権で駐屯していることなどをどう考えているか、その人の意見や視点の真正性を判断する材料として重要視しているわけです。こうした政治性を孕む話しは、自分たちの表現や主張や運動とは馴染まないとか、無縁だと思った人には、今一度、「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの言葉を贈りたいと思います。(^^)/

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