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再び、「イジメ」を考える

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 ここ2週間ほど、若者たちと「イジメ」のことや、「不登校」のことについて対話をしてきました。例えば、みんなの「イジメ」についての話しや主張を聴くと、いつもさかなクンさんの話を思いだします。彼は自分が中学生だった頃の体験を通じ、魚の世界のたとえ話を紹介します。

 メジナという魚を例にして、「メジナは、海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じ込めると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。」(朝日新聞 2006年12月2日)

 さかなクンさんの話は、たいへん示唆に富む話だと思います。イジメの話、特に、学校などという場において発生する「イジメ」という現象に対して、その解決というか対策として、多くの場合は、発生する事前であれ、事後であれ、いわば対処方法的な視点を中心としてイジメ対策なるものが語られます。確かに、緊急避難的な意味で、既に発生をしてしまっていることに対して速やかに対処を施すことは重要です。少し厳しい言い方になるかもしれませんが、実際、現在の日本の学校などで起きている「イジメ」という行為の多くが、犯罪的なものであることは明らかで、もしこれが欧米で起きるのであれば、法的処罰の対象となってもおかしくないと思われます。したがって、昔から僕が主張しているように、法的暴力には、法的暴力で対抗するしかないということです。

 このようにして、「イジメ」という現象に対して、その原動力となってしまう暴力には2つの種類があり、上で書いた法的暴力に対して、もう1つの暴力である彼らが人として持つであろう純粋(本性)な暴力についての対処方法については話しが長くなるので、ここでは喋りません。関心のある方は、僕の本でも読んでください。で、話を戻して、さかなクンさんの話を読んだとき、僕は、最初は、彼が言うところの水槽が学校なのかと思ったのですが…。最近の日本の状況、各地で起きている様々な社会事象(イジメ的な)を見るかぎりでは、どうやら、日本社会全体が水槽だったんだと気づかされました。考え方としては、社会が学校化したのか、それとも学校が社会化したのか…、そもそも、学校という場所がそうした役割を担わされているのか…。

 少なからず、こうした視点で、今一度、学校という場所で起きている「イジメ」という現象を見直すと、はっきりと言えることは2つあります。1つは、日本で発生している「イジメ」的な現象は、学校(構造的に、結果がより強力に吹き出す先端かもしれない。)を含め、社会から決して無くなることはない。言い換えれば、必ず生みだされ続ける。そして、もう1つは、既に、個人の責任とか個人の力では、解決しようのない事象であるということです。

 だとすれば、こうした事象を否応なく生みだし続ける社会の仕組みについて、しっかりと知る必要が出てくるわけのなのですが、ゆえに、僕などは、近現代資本主義の仕組みやら構造に関心が向き、マルクスなどが言う資本主義の、特に、人間の精神に与える影響について視線が注がれることになるわけなのです。そうした欧米などの思想や哲学を知れば知るほど分かることは、彼らは、発祥の地で長い歴史と経験があるだけに、こうした事態が社会に吹き出ることをその多くの者が予見しているし、それを防ぐために、対抗的な意味での法的暴力の強化(近代立憲主義)などをすすんで行っているわけなのですが…。未熟なというか、本来、価値観の違かった日本では、人々のそうした意識が弱く、というか、本当は、欧米的近代国家を模倣するのであれば、そこまで教育に織り込むべきだったと思うのですが…、先に、貨幣獲得第一主義となってしまったわけで…。結果として、社会の仕組みの結果、引き起こされている多くの問題事象も、個人の力や人間の情的(これも実際は、純粋な暴力の1つ)な力を持ってして、乗り越えさせようとしてしまっているわけです。

 ということで、ほんとうであれば、社会の仕組みや人々の価値観を変えないかぎり、「イジメ」のような現象はなくならないのです。でも、たぶん今の日本でそうした変革が直ぐに起きるかと言えば、それは期待薄です(教育の成果…)。あーぁ、なんかシニカルな方向にきてしまった…。これ以上続けているとどつぼにはまるので、いつものように強引にまとめて、でともかく、「イジメ」のような事態に対して、法的暴力で対抗する以外にはどうしたらよいのかと言えば、いじめっ子たちが追い込まれて、そうした行為を行っているのだとすれば、こちら側も同様の権利として、自分の生命の存在を脅かすような所から「逃げる」(昔、「逃散」という行為があったよ…。)という権利を行使してほしいと思うのです。当然、学ぶ権利の保障は、違う形できちんとしてもらったうえで…。でもそうか、やはり今の日本は、逃がさない社会なのかもね…、監視社会強化。(^^;)

「不登校」についての話は、また次回…。

※ 純粋な暴力は、生きるため(生命維持)に行使せざるを得ない暴力。そうした視点から見たら、人間がある状況に追い込まれて自己防衛のために本能的に行使するのだとすれば、生物機能的には正常に機能していると見られなくはない。

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