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未来は

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 最近いろんな人と話しをしていると、日本の将来について語るとき、2つのタイプの人がいることに気づきます。1つのタイプは、たいへん悲観的で強い危機感を持っている人たち。そしてもう1つのタイプは楽観的で、ちょっと厳しい言い方かもしれませんが、刹那的でそんな先のこと考えてもしょうがないでしょという人たち…。まぁ、人間の習性として、ある社会の未来について語るとき、こんな2つのタイプに分かれるということ自体は、ごくごくふつうのことなのかもしれません。
 それで、僕が興味を持ったことは、ある意味で、近い環境にいるにもかかわらず、人によって反応がこのように180度も変わることです。確かに、90年代後半以降の日本は、新自由主義的政策などの推進により、一層の格差社会化が進みました。したがって、今日本の現実は物質的にも精神的にも相当に分裂が進み、特に、生活していくのが厳しい状況におかれている人々からすれば、日本の未来は悲観的なものにならざるを得ないのはしかたがないことだと思います。ましてや、さらなる資本主義的な発展を望むとしたら、こうした状況が訪れるのは一般的な結論なので、ふつう政府は推進すると同時にセーフティーネットの拡充も行うはずなのですが、日本政府は無頓着でした。せいぜい政府筋が行ったことは、分裂していく国家を再統合するためにナショナルな意識を煽ったことぐらいでしょうか…。

 さて、ここまでのと言いますか、今後のと言いますか、流れ特に近代以降の資本主義的な国家においては、何度も言ってはいますが、歴史の常において放っておけば自動的に戦争でリセットされるわけなのですが、どう考えても戦争によってリセットされるのは嫌だというのは国民の総意だとは思うのですけれど…。政府は、絵に描いたような戦争準備と言いますか戦争のできる国作りを着々と進めています。今のところ戦争以外の代案は示されていないようです。ただ、危機感を持つということで、軍事的な補強が必要だとの主張に対しては、少々違和感を感じています。その対象となるであろう某国は、一義的な攻撃目標は在日米軍基地だと言っているわけですから、日本から米軍基地を無くせば攻撃する理由はなくなるはずですし、同時に日本の主権を回復するわけですからナショナルな主張する方々から見ても同意できる話であるはずなのですが、あまりそうした点には触れられていないのが違和感を感じる理由です。

 と今のところは、そんな見え見えな未来に対して、危機的ではない一方の人々は、なぜゆえに楽観的でいられるのでしょうか。理由はいくつか考えられますが、1つには、やはり教育による規律化の成果ということになるでしょう。国家と言いますか政府が考えている方向性がそのまま国民の主体意識として刷り込まれてしまっているので、実際との差異には気づくことなく、政府の方向性=自身の意志だと思い込んでいる。そして、もう1つの理由は、本当に危機的な状況が来ることが予想されるので、生き物としての本能的な自己防衛機能の稼働により無意識的にそのことを考えないようにしている。こうした雰囲気は、日本ではその昔に経験した気もします。

 どちらにしても、より一層の分裂や戦争によるリセットという未来を呼び込まないようにするには、個人による自律主体によって選択し、自らの手で未来を切り拓かなくていけない局面であることは間違いない気がしているのですが…。それにしても、日々の暮らしが立ちゆかない状況は、精神を虚無的にさせます。ある意味で、正気を保つには、正統的な意識を創りだすアート(創造的)な活動が必要だと思うこの頃です。

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