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「自律」と「自由」

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 このところ授業で、「自律」「自由」の話をする機会が何度かありました。「自律」も「自由」も欧米由来の概念のため、 まずは、近代以降の欧米社会における「自律」「自由」のグランドセオリーの1つとして、やはりカント先生の考えを紹介することから始めました。それで、カント先生は、その啓蒙に関連する著作の中で僕流の解釈では、自由と自律の関係について、大体、次のようなことを言っていらっしゃいます。「自由とは、啓蒙により生起する悟性によって獲得された自律的主体意識による道徳的行為で実現されるもの…。」。まぁ、ポイントは3つぐらいあって、自由の意識は元々、皆持っているのだけれど意識されていないので、まずは啓蒙(教育)などによって隠されてしまっている意識を引き出す。そして、自由は、自律的な主体意識による道徳的行為で実現されるもの。3つ目として、肝心なポイントは、自由の意識の基になるものである自律的主体意識と、それによる道徳的行為は、超自我的なものとして全ての人に備わっているものだということです。

 あっ、そうそう、そもそもなんで「自律」とか「自由」とかという話になったのかというと、僕が実践している教育の柱(理念)が、「自由」「自律」「平和」なので、僕が考えている「自由」とか、「自律」とか、「平和」の意味とは何なのかという説明の流れで、詳しく話すことになったのです。 で話しを戻して、カント先生の話を手がかりにして、もう少し詳しい話をしていくと、まず、「自律的主体」という点についてです。ここで言う主体による自律を考えるとき、注意が必要なのは、やはり「主体」ということです。今までのブログなどでの話からも気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、どうやら「主体」には2通りあることが予想されます。1つの「主体」は、人が国家的な教育などによってその意識を超自我化され「主体」と思わされているもの。そして、もう1つの「主体」は、人間が生きていくために本性的に身につけているはずの本能的な意識。本文では、前者の主体による自律を「国家的主体自律」と呼び、後者の主体による自律を「個人的主体自律」というように分けて呼びたいと思います。
 おそらく、近代以降のヨーロッパ社会などにおける「自律」は、「国家的主体自律」を無意識的(中心的)に指していると思われます。その理由は、簡単に言えば、近代以降の特にヨーロッパでは、既に国家があり、そこで国家的教育(啓蒙)などによって、国民が作られていた(主体化/規律化)からです。ゆえに、個々人の自然権的な意味での主体の存在は、かなり紛れてしまったと言えるでしょう。ちなみに、僕が目指している教育は、「個人的主体自律」であるところの「自律」を、保証実現しようとしているのは言うまでもありません。

 それで、前述したような「自律」による「自由」ということになるのですが、ゆえに、「自由」も大きく分け、2つの「自由」があるということになる訳です。まずは、「国家的主体自律」であるところの「自律」によって実現される「自由」です。簡単に言えば、「政治への自由」ということになります。この「自由」とは、国家の価値観が反映された「自由」で、国家の存在(その国の存在規定/憲法など)によって保証された「自由」ということになります。具体的に言えば、「アメリカの自由」であり、イギリス・フランス、はたまた中国の自由ということになります。前述したように、近代以降の世界では、「自由」というと、多くの人が国家に属して生活しているので、「自由」と言えば、国家的主体自律による「自由」が唯一の「自由」であると思わされている節はあります。
 
 一方、「個人的主体自律」による「自律」で実現される「自由」とは、国家という枠組みの中で言えば、そもそも、全ての人間に保証されている「自由」で、基本的人権や生存権等に属している「自由」ということになるでしょう。この「自由」をあえて表現すれば、「自然からの自由」という感じでしょうか。しかしながら、こちらの「自由」においても、近代以降の世界においては、既に憲法のような法によって規定されている国家内での「自由」となってしまうので、法ありきの視点から見れば、この「自由」においても「政治への自由」に回収されてしまう傾向は強いと言わざるを得ません。逆に言えば、この「自然からの自由」を獲得するには、その自由を保障しているであろう国家のあり樣が、重要な要素になることにお気づきだと思います。

 このように、前者の「自由」であれ、後者の「自由」であれ、近代以降の国家においては、その自由は、国家内自由の傾向が強いために、最終的な獲得自由は、「政治への自由」となってしまうのですが、それゆえに、憲法による国家規定が相当に重要となる訳です。例えば、日本の場合は、非軍事国家ですので、日本における自由とは、それが政治への自由であったとしても、その自由は、軍事によって確保される自由ではないということになり、他の、特に欧米諸国の自由とは、その前提から違うということになります。
 このことは、こと教育の分野にとっては、非常に重要な前提となります。僕の場合は、非軍事によって規定をされている国家内において、個人的自律主体による自由の獲得を目指す教育を行っていて、その方法としてディアローグ的な対話による学習を重視しています。細かい説明はしませんが、その視界には、「自然からの自由」、すなわち、僕流に言えば、「学ぶ自由」(生きるために学ぶ)の獲得が入っており、ダイレクトに真の他者、つまり、「イノチ」の存在の重要性を理解するという目的を明らかにしているということになります。

 ちょっと込み入った話になってきてしまったので、「自律」「自由」の話はここらへんにして、「平和」についての話は、また、機会があるときでもしましょう。それでは、また。(^^)/

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