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遊泳注意!

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 最近、批判をすることが、何か悪いことのように言われる場合が多い気がします。まったく単純な話ですが、批判=否定ではありません。ましてや、政治に関係する世界などでは、批判がなければ政治とは言えないでしょう。いつ頃から、批判することが疎まれる風潮になったのかなぁ~、と考えてみました。ただ、最近疎まれる批判とは、自分たちの考えや想いにそぐわない考えや意見を持つ人々からの、主張や意見全般を指しているような傾向が強いと思われます。
 ちょっと遠回りな話しになりますが、2つの視点から最近のこうした風潮を考えてみたいと思います。まず1つの視点は、日常生活の場からです。日常生活と言っても僕の場合は、若者たちと対話をするというのが、日常の生活の中における中心となります。そうした場において、ここ何年かの間で感じることは、いわゆる日常の雑談とかという場ではなく、何らかのテーマを決めた議論などの場においても、厳密に言えば、批判というのではなく意見と言った方がよいかもしれませんが、相手というか、誰かの意見に対する批判というのは、あまり聞かなくなりました。
 そうした議論的な場においても、まずは相手を批判するような意見は、まったく出ません。確かに、日常の生活の場において、誰からか面と向かって批判をされれば、言われた方は胸が痛くなるでしょうし、言った方との人間関係もギスギスしたものが残ったりするでしょう。だから、人間関係の調節方法として、よほど親密な関係を望まないかぎりは、そうした批判を言い合えるような関係性にまで踏み込まないのがふつうではありますが…。意見を言い合うことを目的するような場においても、なかなか、相手を批判するような意見は出なくなりました。こうした状況をよく言えば、日本の特に新しい世代は、相手の気持ちをおもんばかり、相手が傷つくであろう言葉は差し控えるというやさしい気持ちの醸成の結果であると、考えることができるかもしれません。そのことがいいことなのか、悪いことのなのかの判断は先送りして、もう1つの視点からこうした状況を見てみます。
 もう1つの視点は、やはり、政治的な領域における視点です。こうした話をするときは、以前にも紹介したように、政治とは何かという話からしなくてはいけなくなるのですが、長くなるので、ウェーバー先生の主張を援用しつつ僕流に言わせてもらえば、(主体的)に表現するものは全て政治性を孕むとします。つまり、生活全般は政治性から切り離すことができないということです。とすれば、政治とは生活全般そのものということなり、生きていく上で欠かすことできない要素の1つとなります。その政治の中心、特に近代以降の民主的な政治に欠かすことのできないのが、自由にできる議論であり、その手法の1つとしての批判であり、批判の精神であったはずです。逆に言えば、自由に批判し合える環境を保証していくことが、近代民主主義の本懐であったはずです。さらに言えば、このことは、民主的な生活圏を維持していくための国民側のむしろ権利であり、自由な批判の場がなくなることは、民主的な社会の後退を意味するものだと思われます。したがって、どこかでさし聴いた「批判なき政治」なんて、そもそも、それでは民主政治と言えません。それは、民主国家の放棄かつ独裁国家宣言みたいなものです。

 なんとなくまとめます。大事なポイントは2つあるような気がします。1つは、ここでも何度も言いましたが、大きな権力を持つ、例えば政府だとか、為政者側が国民を批判することと、国民が政府などを批判することは、近代の民主的な国民国家においては、その立場の前提から違うのですから、意味がまったく違うということ。当然、国民から政府に対する批判の自由はきちんと権利として保証されなければいけません。むしろ、政府に対する健全な批判は、民主国家であることの証明となるでしょう。
 そして、もう1つのポイント、こちらの方が今回の話しの肝かもしれません。それは、国家というか、政府は批判多き国民を嫌うということです。基本、為政者側は国家や政府に従順な国民を作ろうとします。最近の日本では、政府は国民が主権在民である意識を持つことを嫌っているように感じます。というか、時々の政府が国民の持つ権力に対する批判的精神を希薄にするために、様々な施策を行ってきて、その成果が実りつつあるということなのかもしれません。証拠に、批判を嫌う人々の主張の多くが、無意識的というか意識的にというか、本来であれば権力を持つ者と持たぬ国民の立場は非対称的であるはずなのに、あたかも、権力者であろうが、ふつうの国民であろうが、同じ立場であると、例えば、基本的人権などを持ち出し、国民が権力者を批判するのを批判するわけです。自身の非対称性は健忘したか、隠蔽した上で、権力者側の代弁者のような振る舞いをふつうの国民がするようになってきています。これでは、「批判なき国民」を作ろうとしている権力者側の思うつぼです。
 ということで、僕としては、多くの人々が健全な批判精神を、特に生活世界の中に取り戻してほしいと願うのでした。

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