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 先日のブログで、日本で起きている「イジメ」の構造について少し話をしました。「イジメ」という事象だけではなく、現代社会のいろいろな所で発生している事象は、一見個人の意識によって引き起こされているかのように見えることが多いのですが、実際は、その多くが、社会のシステムによる影響によって引き起こされていると言えます。したがって、そうした事象に対して、個人の力によって対処するには、やはり限界があります。
 既に稼働しているシステムにおいて、そうした特に、人間にとって不利益なことが発生しないよう制御するために、そのシステムの利用年数の長い人たち、例えば、日本の先輩格であろう先進諸国と言われる欧米の国々では、個人の力では止めることができないシステムによる抑圧傾向に対しては、同様のシステム(法の力)によって制御するようにできています。ゆえに、近代立憲主義や三権分立の原則は近代国家にとっては重要事項となるのです。ですから、本来であれば、システムの暴走を防ぐための対抗システムを考慮すべきであったとしても、決して、為政者側の権力強化を促すようなシステムの構築を国民側は安易には許してはいけないのですが…。

 そうした近代以降、日本をはじめとした多くの国が採用したシステムの1つが資本主義というシステムです。このシステム発展のためのポイントは、今までに何度か紹介しましたように、「新市場の開拓」と「イノベーション」でした。そして、それらを実現させる原動力となるものが、人々の「欲望」、特に、「貨幣への欲望」でした。日本をはじめとする資本主義というシステムを採用した国々は、そうした発展のための目標を達成すべく無批判的にと言いますか、無反省的に言いますか、ある意味で、一方的と言いますか、自動的にとでも言いましょうか、とにかく、貪欲に突き進んできました。
 発展のためのこの両輪は、競争し合う強力なライバルのような関係でもあります。どちらにしても、地球というような時空的には有限な場所であるかぎりでは、拡張は一巡というか、行き渡ってしまえば、今度は、否応なしに細分化への道を進むことになるわけです。とにかく、細かくすることで、市場などを増やすのです。電話などがいい例です。その昔は、一家に1台だった電話が、今や携帯・スマホということで1人に1台となったわけで、4人家族が全員持っていれば、仮定的には市場は4倍に増え、それを実現させたのが技術的なイノベーションとなるのです。第二次世界大戦後、世界にまれに見る急速な消費文化社会化を達成した日本は、そうした意味では、まさに、世界に先ゆく細分化(個体化)社会となったのです。

 さてさて、そういった個体化社会が引き起こす現象は、何も経済発展的な現象だけではありません。同様に、人々の精神も細分化させていくことになるのです。簡単に言えば、分裂化ということです。否応なしに、人々の心は分裂していくことになるのです。「精神の疎外化」が起きるということです。ドゥルーズとガタリは以下のように述べています。

「資本主義は、脱領土化の運動と切り離せないものであるが、この運動を作為的人工的な再領土化によって払いのける。資本主義は、大地的そして専制君主的、神話的そして悲劇的表象の廃墟の上に建設されるが、またこれらの諸表象を資本のイメージという資格で、自分に役立つように、別の形態で再建するのである。マルクスは、次のようにすべてを要約している。主観的抽象的本質が資本主義によって発見されるとしても、それは新たに鎖につながれ疎外される。」(ドゥルーズ=ガタリ、宇野邦一訳『アンチ・オイディプス 下 資本主義と分裂症』河出書房新社、164頁)

 と、そうならざるを得ないので、精神の分裂化などを防ぐためにも、芸術だとか休息が必要なのですが、欧米にあるようなそうした文化までは、急速模倣の日本には根付かなかったということでしょうか…。また、一方で、細分化による社会や人々の精神の分裂化ということに対して、それもある意味では、資本主義というシステムを採用しているいじょうは、過去において繰り返し機能してきたことなのですが、細分化の次に来る動きが全体化とか群体化です。つまり、何かを契機として、細かくなってしまったものをリセットした上で再統合し、プレーンというか、デフォルトの状態に戻すという動きです。この流れは、近代資本主義というシステムにおいては、かなりオートマチックで、上述した二氏風に言えば、「脱領土化-再領土化」という表現になるかもしれません。

「部分対象としての欲望機械は、二つの全体化作用を蒙るのだ。そのひとつは、出発点の集合において不在や欠如として働く象徴的シニフィアンのもとで、社会体が欲望機械に構造的統一を与えるときの全体化である。もうひとつは、到達点の集合に欠如を分配し、『空胞化する』想像界のシニフィエによって、家族が欲望機械に人称的統一を強制するときの全体化である。」(ドゥルーズ=ガタリ、宇野邦一訳『アンチ・オイディプス 下 資本主義と分裂症』河出書房新社、173頁)

 当システムにおいては、何もしなければ自動的にこうした流れを繰り返すということで、以前から話している〈バブル-恐慌-戦争〉という流れも、このような機能の1つの実際であると言えるでしょう。どちらにしても、戦後の日本は、発展という言葉のもと細分化(分裂化)が急速に進み、かつ、そうしたことで発生するであろう弊害に対する備えの意識も希薄なままに現在に至っていると言えると思います。その証拠の1つが、「イジメ」のような現象となるのです。こんな視点から、共謀罪のことなどを見ると、上述したような流れ再現のための準備意識が、もう既に超自我化してしまっているがゆえに、当事者たちは、真の意味など知らぬままに、目の前の課題に対する有効な対処的方法であると思い込み、ことの本質に対して無自覚的、かつ自動的に準備を進めていってしまってるように見えてしまいます。再領土化(再回収)されないで、こうした動きに対して歯止めをかけるための様々な活動をしてきました…。まだまだ、力不足ということです。(>_<)

居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』
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