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空気感

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 最近の報道などで、「教育勅語」であるとか、「道徳」とかという教育関連の単語を目にしたとき、僕は直ぐに教育基本法のことを思い起こしました。教育基本法は、日本国憲法に則り、戦後日本の教育に関する根本的で基本的なことを定めた重要な法律でした。その教育基本法が2006年の第1次安倍政権のときに変えられたのです。それから、約10年が経ちましたが、そのときに旧教育基本法から変えられた部分をいくつか振り返ってみました。丁寧に全部の箇所を比較したいところではありますが、文量も多くなってしまうので、今回は、前文を中心に再確認したいと思います。

 前文で書き換えられ、加えられた文書において目につく言葉は、「公共」・「伝統」という言葉です。旧前文と差し替えられた前文の全体の印象は、旧前文においては、戦前の教育が、国家のための国民を作るのが第一目的であったことを深く反省し、個人における人格の完成を目標とすることを明確にしたものであったのに比べ、だいぶ再び、個人から国家中心主義的なものへと回帰しているように感じます。そうした印象を与えるキーワードが、前述した「公共」とか「伝統」という言葉です。
 一見すると、これらの言葉に差し替えられたからと言って問題はなさそうに思うかもしれません。しかし、ここで注意が必要なことは、例えば、「公共」という言葉の意味が、いわゆる近代民主主義的な定義で使われているのであればまだしも、ときの政権、すなわちそれを引き継いでいる現在の政権の性格から考えて、意識的か無意識的にかは判断できませんが、その後、明らかにされた彼らの憲法草案からも分かるように、近代立憲主義などを理解し、当然としての前提である基本的人権などの保障を担保した上での「公共」という言葉の使い方ではなさそうな点です。ここでの「公共」が意味するものは、国民の国家ではなく、国家の国民であるところの「公共」です。こうした近代民主主義の原則を無視した公共観では、むしろ戦前回帰であると言わざるを得ません。また、「伝統」と言ったときも、単なる情緒的に日本的であると思われてきた、例えば、神国日本のような戦前からある単なる本質主義的なものへの回帰であると予想されてしまいます。しかしながら現実には、そうした考え方を差し込まれた新教育基本法が施行されて10年が経ったのです

 まず、ここで僕が驚いたというか、気づかされたことは、社会の原則などを決める重要な法などが、そうした原則の変更等を意図し、ときの政権などに変えられると、静かにかつ確実に社会全体に浸透し、国民があまり意識しないうちに前提が変えられ、知らないうちに変えられた前提が当たり前となってしまう点です。昨今の教育に関するトピックは、このような操作の成果であり、そんな国家が作り出した空気感を、まさに国民の側が忖度した結果であるような気がします。どちらにしても、先行した誰かが特殊な考え方として注目したのではなく、既に先行している時の政府の政策的意図の成果の1つとして顕在化したものであったのでしょう。こうした視点から見れば、大阪の某学校と政府との関係性がよく分かります。そして、その時は、たいして影響はないだろうと考えられることも、国家の在り樣などの原則に関わるような法の変更は、時を経て静かに確実に社会の原則を変えるということ。すなわち、悪用する政権の登場の場合も含め、後に悪法に変えてしまったことを悔やんでも遅いということで、国の基本法などが変更されるときは十分に注意が必要だということです。残念なことに、既に変わってしまったものも多くありますが…。

 前述したような出来事を少し離れて見ると、次のようなことも浮かび上がります。それは、前述したような「公共」だとか「伝統」という言葉を国の原則法に取り入れざるを得なくなっているのではないかとする見方です。言い方を換えると、資本主義などという社会システムを採用しているいじょうは、回帰とかというロマン的なものではなく、構造的に同様のルーティンを繰り返すということです。厳しい言い方になりますが、システムを変更しないかぎり、選択の余地のないルーティンの繰り返しであるということです。証拠に、国民の価値観において、「公共」だとか、「伝統」と言ったものをすり込まざるを得なくなった背景として、資本主義というシステムが構造的に持つ課題であろう社会の個体化やグローバル化に対処するためのものであることは明らかです。
 そして、特に国家のこうした在り樣は、何も新しいことではなく、先の戦争時と何も変わらない同様のプロセスの繰り返しの過程にあると言えるでしょう。このような流れがある意味で、近代国民国家の一般的な流れなのだとしたら、特に、日本は厳しいと言わざるを得ません。それは、経験した歴史を変えようとする意識が国家にも国民にも希薄だからです。中でも政府の無策というか無自覚ぶりは、日本のお家芸的なものです。本来であれば率先しなくてはいけない、国民・国家の意識の分裂を避けるように考慮した新しい市場の開拓であるとか、少なからず、多少保護主義的傾向には偏りますが国内市場や内需等の活性化だとか、イノベーションへの投資や人材の育成だとか…、そうしたことにはあまり力を入れることなく、従来というか旧来型の対処的政策である精神性を中心としたようなナショナリズムの再強化などでは、何か新しいことが起きようがありません。ましてや、戦争に加担ができるようになった今では、経済的発展の名のもと、何もしなければ自動的にいつか来た道です。おそらく、システム上、1つの集団や個人に大きな権力を長く持たせたりすると権力側が暴走することを失敗も含め経験をした人々は、権力側に対して近代立憲主義のような考えを確立し絶えず抑制的に振る舞おうとしたわけですが、残念なことに日本では、そうした考えは政府側にも国民側にも、未だ広くは定着していません。権力者側と一般国民との間にある非対称性についても、理解している人が少ないのが現状です。

 と、だんだんグダグダになってきました…。(>_<)
 ともかく、失敗を繰り返さないようにするためにも、たとえ微力であっても自分たちの責任において、変革のためのディアローグ的対話を絶やしてはいけないと肝に銘じつつ、代補の運動の場を開き続けたいとこころから思うのでした。重ね重ねのお願いで誠に恐縮ですが、変わらぬご支援/シェアをよろしくお願いいたします。

〈居場所型BookCafe
『STUDIO鎌倉第四次空間』〉
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