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教育的支援…。

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 〈近代教育が持つ機能〉
 現代の教育について考えるとき、忘れてはいけないことは、それは近代以降に発明された歴史的概念であるということです。ヨーロッパで発明された近代教育を、明治以降の日本は輸入しました。教育という歴史的概念が成立する以前の本来的な意味を持っていたであろう教育的な行為においては、今でいうところの権力と結びつくような政治的な意味は希薄であったと言えるでしょう。逆に言えば、その頃には、「教育」はなかったということになりますが。それが、市民革命を経た国民国家成立の過程やら、産業革命後の強力な資本主義社会化などのプロセスの中で、国家設立のため装置の1つとして、近代の教育は確立されていったのです。

 今や国家や政治と深い関係を持つようになった教育ですが、その特に、近代の教育が持つ機能を上げるとしたら、第1としては、「統合」という機能であり、第2として、「平等」という機能、そして,第3として「発達(成長)」という3つの機能を上げることができるでしょう。すると、近代の国民国家成立の過程において登場した近代教育は、当初は、こうした機能をまさに、基本的人権の確保等、近代民主主義の礎を築くためのシステムとして稼働させたのです。近代民主主義の確立期において、教育は民主主義的な価値観を広めると同時に定着させるという役割を大いに担ったと言えるでしょう。

 〈資本主義と教育〉
 一方で、近代化を成し遂げた国々が強化をし出したのが資本主義でした。貨幣の獲得を第一目標とした資本主義発展の柱は、改めて言うまでもありませんが、「市場の開拓」と「技術革新」でした。時代と共に変化をする社会構造から来る要請を受け、本来、人間が自然の一部として生きるための学ぶ行為が中心であったものが、その生への欲望はそのままに、生きるために貨幣を獲得することが第一の社会となり、国家による教育が主となった「学び」は、貨幣を獲得するのを支援することが中心となったのです。

 より一層の資本主義的な発展を目指した国々において、教育は、基本的人権や社会権など、民主主義という仕組みの礎を築くという役割から、資本主義的社会発展(「市場の開拓」や「技術革新」)に貢献する人材の育成ということに重点が置かれるようになります。こうした教育における役割の変遷については、日本の場合と欧米、特に、アメリカの場合とでは、少し詳しく見ていく必要があります。

 〈日本の近代教育〉
 ここでは、日本の教育について述べようと思っていますので、日本を中心にして少し考えてみましょう。日本の場合は、先にも書きましたように、明治維新となり、政府は、もう既に十分に国家のための人材育成へと目的を変えた西洋教育を輸入したわけなので、その教育には、直ちに「富国強兵」に貢献するような人材の育成という役割が与えられました。そこでは当然、近代教育が持つ3つの機能を発揮するようになるわけなのですが、その意味は、当初の欧米的教育が持つものとは違っていました。「統合」は、天皇を中心とした国家統合であり、「平等」は、臣民としてであり、「発達」は、軍事的な役割を担うことができる能力の養成でした。

 その後、日本の場合は、最終的には戦争に敗れ、教育を巡る環境は大きく変化をするわけなのですが、ここで少し先回りをして確認しておくとすれば、ここまでの話でも分かるように、特に、近代の教育は、それが持つ機能は機能として発揮をするのですが、その中身は、時代時代の背景によって大きく変化をしてしまうということです。戦前の日本であれば、「富国強兵」を支えるための教育でありましたし、戦後日本の場合は、終戦まもなくであれば、本来の近代民主主義、特に米国式の民主主義を啓蒙・定着させるという役割を担ったわけです。しかし、日本の場合は経験することのなかった、そうした本来の近代教育の役割を取り戻したかと思われたのも束の間、戦争によって停滞してしまった資本主義的な発展、言い換えれば、経済的な発展を取り戻すことを第1目的とする国作りが台頭するようになります。すると当然のこととして、教育の役割は、そうした社会作りに貢献する人材の育成が中心となるのです。ここでの教育の機能としての「統合」は、社会の資本主義化に伴う国民の精神性や国民国家意識などの分裂を抑制するためのものとなりましたし、「平等」は、自由な経済的競争を担保するための参加資格としてのものでしたし、「発達」とは、個々人の人間としての身体的・精神的な自律の過程を支援・保証するものではなく、貨幣を獲得するための思想(能力主義等)と手法(消費文化の担い手等)を身につけさせるものとなったのです。

 そして、昨今、1990年代半ば以降の日本では、頭打ちとなった資本主義的な発展をより一層の発展へと導くために、政府が採った政策は、資本主義的「自由」と「平等」の強化でした。新自由主義政策と言われたその政策によって保証された「自由」・「平等」・「発達」を教育的な視点から見ると、「自由」とは、貨幣を獲得するための「競争の自由」の保証であり、「平等」とは、「多様な選択肢」としての平等の保証でしたし、「発達」とは、能力主義的な社会観に対する適応力の高い身体と精神を養うことでした。したがって、当然の成り行きですが、国による教育政策は、新自由主義的な「自由」や「平等」という価値観を正当化し再生産するものとなったのです。このように、日本のみならず、資本主義的な思想が強化された社会では当たり前の流れとして、資本主義的な「自由」や「平等」や「発達(発展)」を保証するためのシステムとして教育は稼働します。

 このような現代日本における教育の背景を考慮すれば、今、教育の現場で起きている「イジメ」であるとか、「貧困格差」などというような問題が、こうした社会的構造から生み出されているということがよく分かります。そして、そもそも、資本主義的な社会の発展の原動力として、「格差」や「能力主義」というものが必要であるということです。ゆえに、現在の教育の多くが、自動的にこうした問題を拡大・再生産していると同時に、このような問題を生み出す社会観を正当化し定着させる装置として稼働しているというわけなのです。ということで、ここまでの話からも分かるように、そもそも、近代の教育という制度は、その機能としてこうした機能を持つものなので、やはり、その重要なことの1つは、「理念」や「思想」という点になると思います。

 簡単な言い方をすれば、どのような理念や目標のもとに、教育という装置を稼働させるのか、この点がとても大事になるわけです。しかしながら、そうした理念や思想は、既に立憲主義などによって創られている国民国家であるとするならば、国家や社会のあり様によって規定されてくるので、憲法等の存在の重要性は言うまでもないでしょう。そうなると、民主主義や立憲主義などの前提やあり様についても、一言、述べなくてはいけないのですが、今回はあまり広げません。どちらにしても、教育の問題を考えるとき、こうした点も無視することはできないということです。

 〈教育的支援に対する問い〉
 以上のように、近代教育における本質的な意味から現代の資本主義社会下における教育、特に、日本の教育を見たとき、資本主義社会を発展させるための原動力としての問題も発生させ(問題を生み出すこと自体が目的)、資本主義社会を肯定し発展させようとする人材の育成も実現できているという点を見れば、うまく稼働しているシステムの1つであると言えることでしょう。こうした視点から見たときの日本における教育的問題に対する対処法は、原則として再教育とすることで元のレールに戻し適応させるか、問題を抱える集団等を再編成し、抱え込み新市場として取り込むことなどが常套な方法となることでしょう。

 ここから先の話は、なかなか難しいので、今回は詳しくは述べませんが、現代日本社会において、教育的な支援であるとかを考えるとき、こうした社会構造上の流れに対して支援者たちは、どういった意識を持つのかが問われることを忘れてはならないということです。言い換えれば、「何を、一番大切にするのか?」という問いかけです。

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