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みんな当事者だよ

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 戦後日本における経済発展は、強力な消費文化社会を出現させました。消費文化社会を支えた仕組みが資本主義でした。その昔、既にマルクスが指摘をした通り、今も昔も資本主義社会の発展の原動力が、市場と技術革新であることに変わりはありません。戦後の日本は、新しい市場の開拓と技術革新を繰り返しながら、経済的な発展を繰り返してきたわけです。しかしながら、こうした資本主義社会発展の原動力を考えたとき、例えば、市場の拡大と言っても、未知の市場が無尽蔵にある時代はとうに終わり、今や、1つの市場の内部を細分化(個体化)することで新しい市場を作り出さなくてならない時代となりました。一方、技術革新とて、これまた、昔から言い古されているように、技術革新を進めるということは、合理化(効率化)が進むということで、当然のように、利潤率は低下をしていきます。

 さて、そんな時代へと入った日本は、さらなる資本主義的な発展を目論むのであれば、その発展の原動力となる要素が限界となっているという前提のもとに、発展の見通しを立てなくていけません。運良く、こうした限界をも超越しさらなる発展が実現できたとしても、これも既に周知となっていることですが、新市場開拓に伴う強力な個体化は、人々の精神を疎外させ分裂させます。また、技術革新が進めば進むほど、市場に受け入れられた技術を独占することによって収益を上げようとすればするほど、利潤率は低下をしていきます。ただ、こうした資本主義というシステムが持つ限界性のことは、もう既によく知られているだけに、近代以降の欧米を中心とした人類は、既にある市場や技術を一端破壊しリセットすることで、擬似的な発展を繰り返してきました。最近では、兵器等の破壊力が大きくなり過ぎた結果、地球そのものが滅亡するような大戦争を起こすことはできず、テロという名を借りた自作自演の破壊行為でお茶を濁すようになりました。
 
 ここ戦後の日本では、確かに、米国のリセット行為という戦争に間接的に関与することで、経済的な恩恵を受けてきましたが、平和憲法の抑止力により、新市場開拓や技術革新に専念できる環境が長い間維持されたことで、他国にはない飛躍的な発展を実現することができました。そうした側面では、ある意味で、欧米諸国にはない資本主義のステージに入った国なのかもしれません。しかしながら、現在、日本では、さらなる資本主義的な発展を目指して、欧米の後追い的に新自由主義的な政策を強化し、古びたセオリー通りの方法で、新市場の開拓と技術革新を推進しようとしています。ここから先の話は、いくつかの道に分かれることでしょう。分かりやすい1つの道は、今まで通りの方法であるリスタートのためのリセット戦争を起こす、もしくは、荷担することです。自らが起こさなくても、荷担をするという方向なら国民に対して誤魔化しがきくかもしれません。
 直ぐに、戦争をする(できる)という道については、そう簡単ではないと思われますので、政府は着々とその準備は準備として進めることでしょう。しかし、もう1つといいますか、その前段と言いますか、もう1つの道として、現在、政府は、先にも書いたような、旧来の方法、つまり新自由主義的な政策をとり、国内における市場の細分化(個体化)をさらに進め、規制緩和などによって技術革新を呼び起こそうなどとしています。現政権により最近叫ばれる「地方創世」とか、「一億総活躍」などというスローガンは、まさにこうした方向に呼応するものです。

 しかし、ここで思い起こしていただきたいことは、こうした方向性はもう既に、ある意味での限界に達していることを。特に、もし日本が、欧米にはない形で、強度に資本主義的な発展を実現した国だったとしたら、相当に先駆的な状況になっている可能性が高いと思われます。すると、そうした従来の資本主義的発展の方法を模倣するだけなのであれば、直ぐに、また限界にぶち当たることでしょう。このことを現政府は想定しているのかしていないのかは、僕には分かりませんが、素人の僕にも想像できることは、今、政府が声高に叫んでいる、例えば、「地方創世」にしても「総活躍」にしても、資金も様々なリソースも持っていない地方自治体や個人に、選択の自由と自己責任とにおいて資本主義社会の発展を一方的に任せられたとしても、成功するはずのないことはよく分かります。

 とここまで書いていて、ハッと気づきました。もしかして、失敗することを望んでいるのか。というか、資本主義社会が発展していくことの1つの形というか流れはこういうことなのか…。無理矢理、市場を細分化しようとすること、いや、実際は既に相当細分化が進み、地方自治体を支えるはずの共同体は崩壊し、個人の精神は分裂し不安症的な状態が日常となっているところにさらなる個体化、これはどう考えてもわざと失敗の方向へと導いているのではないのか…。政府というか、さらなる資本主義はその先のことを想定しているのか…。例えば、地方や個人に対して、これだけ自律(自立)する機会を与えているのに、皆さん、やっぱりダメでしょとなった途端、やはり国の支援を受け、国の言う通りにやった方が、安心でしょとなる。政府による再統合…。政府、もしくは首相などに権力が集中していく形。そうした形を補完するための機関と成り下がる司法(統治行為論)…。いやはや、きな臭い。そうなれば、例外状態において、原発を動かそうが、基地を作ろうが、戦争をやろうが、おかまいなしとなる。

 こうした流れの不気味なことは、おそらく、個人の判断云々とは関係なく、グローバル化された今日の社会において、一層の資本主義的な発展を目論むとすれば、否応なしにこうした流れにならざるを得なくなるということです。ここまでは、人類にとっての負のリピート。結果として過去の人類は、安直な方法である戦争などによるリセットの道を選んだんだと思います。多分、どの時代でも、こうした流れに対して抗い異議を訴えた人々はいたはずだと思う。そうした人々は、独裁的な権力者のもとに組み込まれることを拒み、少数者の自由と自律(自立)と自己決定権の回復のために闘ったに違いない。その闘いが強力であればあるほど、時の権力者は自己のあり様の正統性(正当性)を高めるために、強権を持ってしてそうした抵抗を弾圧したに違いない。逆らうとろくなことになりませんよと、他の者たちに分からせるという意味も折り込みつつ。

 今、沖縄での闘いは、こうした日本社会の流れの分水嶺になっているのかもしれない。僕たちは、どういう未来を望むのか、特に、子どもたちの未来において、誰しもが考えなくちゃならない当事者的な問題であることを皆が肝に銘じなくちゃいけませんよ。

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