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オル教論・まとめ的つぶやき

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 僕にとって至福の時間である若者たちとの対話の時間が、一区切りつくこの時期…、まとめ的なつぶやきを少し残しておくことします。

・教育におけるオルタナティブ教育の位置(教育の相対化)

 […]オルタナティブな教育である私のオルタナティブ教育の教育における位置について、検討しておきたいと思います。資料にある概念モデルを見てみてください。教育を歴史的概念である近代概念であると見た場合、教育のありようを規定する意味で、今回注意を払っているのが、近代国民国家の存在を限定し、近代教育を規定している軍事/非軍事という要素であることは既に説明しました。このことから、欧米の教育と日本の教育は、その基底コードが違う教育であるということが明らかになります。そうしたコード内において、欧米においては、軍事による存在規定が前提である国家の教育である以上、それが国家教育であれ、オルタナティブ教育であれ、前述したように、その教育によって作られる主体が、時代時代によって軍事によりその存在が保証されている近代国民国家へと回収されていくので、ある意味で、弁証法的なサイクルを同一コード内(言語ゲーム内)で繰り返すということになります。内省中心であるということからも、教育という言語ゲームの外に出ることはできず、絶対的他者を必要とするトートロジー的な機能を繰り返すことになるのです。

 それに対して、日本の特にオルタナティブ教育では、対話(ディアローグ)が中心の行為となるので、そこには、非対称的な関係である〈教える-学ぶ〉という環境が成立し、そうした運動を繰り返す中、実践的直観が生起することによって、学びの先にある絶対的な他者としての生命(連続として命/生きること)の存在を展望するようになるのです。
 つまり、欧米の教育は、内省が中心であるがゆえに、国家教育であれ、新教育であれ、自らが主体的に行ったと自覚する学びという行為であっても、その行為を創造的(生成的)であると認めるのは、絶対的他者であるところの神の意志の範囲であるということとなり、真の意味としての学びには繋がらないのです。それに対して、日本の教育、特にオルタナティブ教育では、その活動によって生起してくる学びは、自身の生命(生きる意志)によって裏付けられたものであるだけに、生きることに直結する真の学びとなる可能性を持つのです。学びと生命との関係については、私が定義した学び定義を読み直してみてください。

 さて、今回のオルタナティブ教育論での検討の射程は、ここらへん、すなわちオルタナティブな教育である「オルタナティブ教育」(教育の相対化)から、教育のオルタナティブである「学び」の存在への展望(教育の脱構築・教育の脱領土化)という所まで十分だと思います。ですが、今後の思惟に繋げる意味で、その契機となるであろう点、言い換えれば課題についても少し触れておくことにします。

・なぜ、私たちは引き戻されなかったのか?

 オルタナティブ教育を教育という領野において確立することは、結果として、オルタナティブな教育を確立するということで、教育の相対化を進めることになりました。教育の相対化を進めると、一般的な視点で言えば、その思想や理念は、独我的なものとなり、文化相対主義や本質主義的なものになりかねません。

 私たちに関係していることで説明すれば、例えば、登校を拒否している子どもに対して、学校には無理してまで行く必要はないと言うのではなく、学校に適応させ戻そうとすることです。この時の支援者の視点は、自身を学校というシステムの中の一組織であるとするような(学校信仰)、制度内価値観における対象的な視点となります。そこでは、真の対話は成立せず、そうした子どもたちは、救済の対象となり、逸脱した可哀相な子どもたちを早く正常な状態へと戻そうとする、まさに、独我的な存在としての支援者となります。内省を美徳とする近代国民国家においては、支援者も子どもたちも、学校化された社会によって再生産される自律的主体にその意識が回収されていくのです。欧米社会では、そうした価値観を保証しているものが宗教であったりしますが、戦後の日本では、そうしたシステムは稼働していないので、それに変わるものとして、学校そのものが、国家としての自律主体(貨幣を獲得することを第一とした)を国民に刷り込むシステムとして宗教的な役割を担っているわけです(学校信仰)。そうした状況下において、私たち自身もこのような学校信仰(学校神話・法的暴力)を刷り込まれてきたわけですから、本来であれば、救済者として振る舞ったとしてもおかしくなかったはずです。実際、多くの支援者と称する者がそうした立場を取りました。不登校という実践運動している子どもたちからしてみたら、そうした視点は迷惑なものでしかありません。彼らは何も学ぶことを拒否しているわけではなく、学校信仰(家族関係をも含めた社会のあり方)という価値観に対して異義を申し立て、家族や他者との真の対話を取り戻そうしていただけだったのです。今までの話しからも分かるように、こうした真の対話が生命の問題に繋がっていたことは明らかです。不登校の問題などの最悪の解決が、自死であったりするのは、逆説的ですがこのことの説明になります。学校信仰・神話の恐しいところは、このように不登校であれ、イジメであれ、子ども自身が行った内省行為によって、命を絶つことで解放されようとする結果を導くことです。

 一方で、私たちの場合は、そうはなりませんでした。なぜ、私たちは学校信仰に引き戻されなかったのか? この視点が、オルタナティブ教育の未来を考えるにおいて、非常に重要な点だと思います。[…]

なんてことをゴチャゴチャと喋っているのでした。

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