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FW沖縄2015-3

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〈沖縄米軍基地を知る旅〉

 沖縄の米軍基地を巡ろうと思うと、当然、一日で回りきれるわけはありません。しかし、若者たちに伝えたいことあまりにも多く、自然と早口でまくしたてている自分がいます。まずは一路、58号線を北上し、辺野古を目指します。下からは見ることができない普天間基地下を通り、キャンプ端慶覧あたり、伊佐浜前を通るときは、やはり1950年代の初めにあった「銃剣とブルドーザー」の話をせざるを得なくなります。50年代、朝鮮戦争や本土との関係も話さないわけにはいきません。そうこうしていると北谷にさしかかります。北谷では、基地が返還されることの意味を説明しなくてはいけません。よく本土の人たちは、1つの誤解で、基地がなくなったら沖縄の人たちが生活できなくなると、今でも言う人がいます。基地が返還されたことによって、雇用や産業が生まれている事実を知ってもらわなければなりません。

 あーだこーだと言っているうちに、極東最大のアメリカ空軍基地嘉手納基地に到着します。基地の内側まで見るには、やはり「安保の見える丘」に立った方がよいと分かり、最近は、道路を渡り黙認耕作地を横切り丘に立ちます。あまりに広い嘉手納基地、でも目の前に広がる滑走路の部分は、全体の一部でしかありません。F15戦闘機やP3C対潜哨戒機が、頻繁に離発着をしています。まず、その騒音に皆、驚きます。嘉手納基地の特徴的なことは、米軍の様々な情報収集用機体が勢揃えしていることです。米軍の目と耳の機能が集中している基地だと言えます。また、基地内の設備も来る度に刷新されていることがよく分かります。今回も左手奥には新しいハンガーが建設されていました。こうした設備の多くは、日本からの思いやり予算等の援助によって作られています。そんな実際を見せつけられると日本は十分に米軍に貢献しているのに、まだまだ不足なのかいね…、と考えさせられるわけです。しかしながら、米軍の占領時代に収用というか基地にされた所の多くが、沖縄の土地の中でも広々としたよい場所にあることに気づかされます。普天間基地などの歴史を見てみると、今、基地がある所には昔から村の中心地があり人々の生活の場があったことが分かります。今、米軍基地がある所の多くには、沖縄の人々の暮らしの場があったのです。その名残として、お墓があり、御嶽がありと先祖の供養もままならぬ時間が過ぎ去っているのです。戦後、収容所から戻ったとき、生活の糧であった農地をはじめとする暮らしの場を失った人々は、行くあてもなく基地の周りに留まるしかなったのです。

 沖縄の人々の現在の状況の多くが、選択肢のない中、そうせざるを得なかった結果なのです。そうしたことを考えると、沖縄に関係する特に基地の問題などを本土の人が考えるとき、忘れがちのことは、原則としてそうした問題の前提というか、スタートラインの状況が本土の人たちの経験とはまったく違うということです。最近の政府の物言いは、そのことを完全に忘却をしています。沖縄における基地負担を軽減させるのは、政府の役割であり沖縄の人々が自ら負担軽減案などを作成するなどというのは本末転倒であると言わざるを得ません。そうした態度こそが、上から目線の何ものでもありません。フィールドワークなどに行くときは、そうした場所に私たちがお邪魔させていただき、いろいろなことを学ばせていただくという意識を忘れてはいけないと思っています。

 中部から北部に連なる米軍基地を縫うように北上していきます。キャンプハンセン内を通る沖縄自動車道の伊芸のSAでいつもだいたい一休みをします。海兵隊の基地であるキャンプハンセンは、実弾を使った演習ができる基地で、演習地域にはレンジという名称がついています。そのレンジに近接をしているSAのある金武の町では、実弾演習の流れ弾による事故がひっきりなしに起きています。そんな日常がここにはあります。90年代後半まで行われていた県道越えの射程が20キロメートル以上ある榴弾砲の演習は、あまりに危険だということで、本土の基地へとその場所を移しました。復帰前から行われていた榴弾砲の演習は、日本への復帰とともに中止されるものだと沖縄の人々は皆思っていました。しかし、演習は中止されず、結果として沖縄の人々が声を上げたことによって演習は移動することになったのです。裏切られ続けている痛みの痕跡があちらこちらに残っているのです。

 龍神様が祀られている広く青い辺野古の海、そこに熱いジェット気流を吹き付けながら飛ぶオスプレイが離発着する飛行場や、強襲揚陸艦が横付けできる港を持つという新しい基地が建設されようとしています。普天間基地移設という名のもとの新基地建設、普天間の5倍の広さ、機能強化…、「もうこれ以上、新しい基地を作らないでください。」という県民の声も無視された上、普天間基地の閉鎖と新基地建設は連動した事項ではなかったにもかかわらず、いつしか、普天間基地閉鎖の条件であるかのように政府は言い続けています。

 辺野古に来て、建設反対のテントやキャンプシュワブのゲート前に立ち寄り、抗議の行動をしている方々にお話を聞かせていただきます。そこでは、沖縄の方々を中心として、本土から来られた方々も肩を並べて抗議活動をしています。こうした抗議の活動を疎ましいと思っていられる方々が、よくこうした活動は本土から行った者たちが中心で地元の人はいないなんて言う人がいますが、現場に来ればそんなことはないのが直ぐに分かります。むしろ、こうした問題の根源が本土の方にあるだけに、本土からの応援の人々が少なすぎると思ったりします。本土の方々が沖縄の基地問題を自身の問題であると理解している人があまりに少ないということです。そして、闘いの最前線で身体を張って抗議の活動をしていられる沖縄の方々の話を聴いていて気づくことは、確かに、沖縄にこれいじょうの基地を作らせないという気概が伝わってくると同時に、いのちを守るというもっと大きな志が彼らの活動の原動力になっていることに気づかされます。

 沖縄で行われてきた数々の平和運動において、私たちが知っておかなくてはいけないことは、その運動の原動力が一見すると地元の利益だけを守るための運動のように見えるかもしれませんが、その大本には必ず、人すべてというか生き物すべてにおけるいのちの存在を守ろうとする意識がその運動を支えていることです。沖縄の人々が、必ずやこの境地に至ることは非常に重要なことであると思っています。このように沖縄で発生をしている特に軍事に関係しているような問題の本質が、本土の人々を含めた問題であると同時に、人間のあり様をも問うすぐれて普遍的な問題な繋がっていることの証でもあるのです。

 表現としては適切ではないかもしれませんが、現場の方々との対話が私たちを正気に戻らせるのです。さらに北にある高江にも行きたかったのですが、時間の関係で叶わず後ろ髪を引かれる思いで山原を後にしました。途中、今年は、コザにある「戦後文化資料展示室ヒストリート」に寄りました。戦後コザ文化の中心地であった場所にあるこの資料館は、コザの街の歴史をアクチュアルに伝えるものとなっています。常駐されている学芸員の方から、丁寧な解説していただきました。午前中に実際見てきた場所などの説明もあり、たいへん臨場感あるものとなりました。と気づくともう、夕闇せまるころとなっていました。

 那覇に向かい58号線を戻っていくのでした。そんな私たちの頭上を、夜間訓練なのでしょうか、軍用ヘリが爆音をたて横切って行くのでした。基地との背中合わせの生活が24時間続くここ沖縄…。

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