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FW沖縄2015-2

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〈沖縄精神史を紐解く旅〉

 沖縄の精神史を考えたとき、沖縄の太陽の存在を無視することはできません。北風が吹く頃の太陽は、たいへんありがたいもので、太陽の恵みを感じないわけにはいきません。一方で、夏を中心とした暑い時期の太陽の力は、そのあまりの強烈さに暴力的ですらあります。しかし、1年を通じて沖縄の地に降り注がれる太陽エネルギーは、生き物たち生命の源であることに間違いないのです。
 そうした太陽エネルギーによって作り出される台風という代物は、命の源である水をこの島嶼地帯に降り注ぎますが、片方では成長途中の作物などをなぎ倒したりもします。けれども、台風の去った後の強烈な太陽エネルギーは、再び作物を成長させ人間たちの生命を保証するものとなるのです。ある言い方をすれば、沖縄島をはじめとする南西島嶼地帯に暮らす人々は、過酷な自然との否応なしの共存を強いられ、人間ごときの力では逆らいようのない自然の力の前で、自身も自然の一部であると同時に自然によって生かされている存在であるということ嫌というほど思い知らされてきたと言えるでしょう。このように、沖縄における精神文化の土台を作った要素の1つとして、自然との関わり合いの中で意識されてきた太陽や水の存在は無視するわけにはいかないのです。

 古琉球において、最高の神と言えば、ティダの神、すなわち太陽神ということになります。その太陽神から命を受けたアマミクという女神が、琉球最初の土地を創ったと言われています。そうした創世神話を基とした殊に琉球王府では、太陽が出ずる東の地域を聖域として崇めたのです。そうした背景もあり、沖縄における古層の文化や精神を知るために、私たちは沖縄島東方を目指し、中でもその中心となる久高島へと足を進めたわけです。
 久高島そのものの紹介は以前にも書いているので、詳しくは書きませんが、今年は事前に久高島での暮らしを紹介したドキュメント映画を観る機会を得たため、沖縄の離島にある暮らしの歴史を再確認した上で現地に向かうことができ、沖縄にある精神文化が島民の暮らしと共にあることを実感することになりました。例えば、久高島の暮らしの中には、何気なくこうした太陽のリズムが刻み込まれていたりします。夏至の日には、その日の出より差し込む太陽の光が島の北から南を貫くようになっており、そうした自然の造作こそ、見るのではなく、観ることに通じ、見えずとも観ることができ、私たちの暮らしに寄り添い存在するもう1つの世界との共存の証しとして、イザイホーをはじめとする祭祀儀礼が日々のリズムの中に溶け込んでいるのです。

 今どきの言葉を使えば、パワースポットなどという表現になるのでしょうか、久高島に足を踏む入れた途端、多くの人は島全体から発せられるオーラを感じずにはいられません。このオーラというかパワーはいったいどこから来るものなのでしょうか。島を訪れる度にどこからともなく、まるで泉から湧き出てくる清水のようなパワーが波動のように伝わってくるのを感じます。その波動の中心にあるのがクボー御嶽のような気がします。男子禁制のその地に足を踏み入れることは叶いませんが、琉球各地にある御嶽の様相から想像するに、おそらく何もない空間、古い木々の生い茂った森の奥底にぽっかりとあいた陽の光が一筋あたり、まさに八幡の光が帯をなすその一点には、イビと呼ばれる香炉が1つ置いてあるだけでしょう。御嶽はその昔、島民たちの始祖であろう祖先の人々が島に上陸し最初に住み着いた所であろうと言われています。自分たちの歴史が始まった原点に人々は立ち戻り神からの声を繰り返し聴くのです。これこそ、他者との間に成立する対話、それもモノローグではないディアローグとしての対話なのではないでしょうか。こうした神々や自然や神人たちとの対話の積み重ねこそが、コモンセンスとしての絶対的な他者の存在を理解させることとなるのではないでしょうか。こうした行為(実践)によって、琉球・沖縄の人々にとっての絶対的な他者であるところの例えば、ティダ(太陽神)の存在は、人々の共通了解としてこころに刻み込まれていくことになるのです。ティダこそ、言い換えれば、生成の原動力、すなわち生命(イノチ)の源そのものなのです。
 こうした、その昔から伝え続いてきた琉球・沖縄にある精神文化とは、まさに、自然とのディアローグ的な対話の積み重ねによって、人々のこころに刻まれた絶対的な他者であるところの生命(イノチ)の存在を確信する共通感覚(沖縄のこころ)であったと思われます。沖縄における祭祀儀礼や平和運動などの場において、そこで繰り広げられる実践・運動の核心こそ、私が繰り返し主張する〈教える-学ぶ〉行為なのです。結果として、その行為は、ヨーロッパ形而上学でいうところの一神としての絶対的な他者の存在を導くものにはならず、その世界の外に存在するであろう真の他者としての生命(イノチ)の存在に気づき、そうした実践・運動の誠の意味というか、目標、同時にそうした実践・運動の原動力こそが、生命(イノチ)を育み守ることなのだということを沖縄の人々は確信し続けてきたに違いありません。

 今年もそうした琉球・沖縄の精神文化の中に飛び込んだ若者たち、何かを観て聴いてシビレてくれたのなら、共に旅をしたかいがあると言うものです。

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