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『15時17分、パリ行き』観ました…

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 観たかったクリント・イーストウッド監督の『15時17分、パリ行き』を観てきました。忘れないうちに感想をちょこっと書き並べておこうと思います。

 この映画は、2015年8月21日、乗客554人を乗せたアムステルダム発パリ行きの高速鉄道タリス車内で発生したテロ事件(タリス銃乱射事件)に旅行中に居合わせたアメリカ軍人2名と大学生の3人の友だち若者グループの話です。結果として、この3人の若者は協力し犯人を撃退して、怪我を負った乗客を助けることになりました。この当事者である3名が本人として出演したドキュメンタリータッチの作品です。

 さて、ツラツラと感想を書いていくことにします。俳優としてのクリントさんも当然ながら、監督としての彼も僕としては大好きな人の一人なので、彼の出演・監督作品は多く観てきました。最近では、『ハドソン川の奇跡(2016年)』『アメリカンスナイパー(2014年)』『グラントリノ(2008年)』等々とです。で、まずは今回の作品の感想を書く前に、少し彼の人なりに対する感想を書いておこうかと思います。感想と言うよりは、僕勝手な印象といったものです。僕が持つ彼のイメージは、草の根右翼的な感じでしょうか…。伝統的なといいますか、まっとうなナショナリストという感じです。まっとうとは何かと言う問題はありますが、僕の勝手なイメージでは、日本でいうところの北一輝氏のようなイメージで「国民の天皇」と言った言葉に重ねるならば、「国民のアメリカ」というスタンスを誇りとして持っている方のような気がしています。そんな彼の最近の作品は、アメリカの伝統的な保守主義(ただし宗教との絡みは注意が必要ですが)から見ることができる現アメリカに対する憂いみたいなものがモチーフとなっているような気がしています。なので、今回の作品も、政治的な立場から言えば、彼は時や支持する人によって立ち位置を変えてはいますが、最近のイメージでは共和党寄りな感じであった彼でさえも、トランプ氏への批判も含めた政権への批判的な眼差しを含むものだと感じます。

 五月雨式に作品の感想も断片的に含めますが、最近の彼の作品は、個人にフォーカスされたものが多いです。一アメリカ国民の日常の延長線上にあるものや、日常の中で起きる事件の意味について描いているものが多いです。彼自身も経験しているからでしょうか軍人(軍隊)に関係している設定も多いと思います。彼のような立場で国家や国民の主権というものを考えるとき、軍人だとか移民の人たちだとかの存在は表象対象となるはずです。中でも軍人においては、今回の作品でも3人の若者の一人が、人のために役に立ちたいと軍隊に志願するシーンははずことができないでしょう。昔、三島由紀夫氏が軍隊は志願じゃないと信用ならないと言ったらしいことに通じます。このことは、ちょっと嫌なイメージを想起させてしまいますが、自分のもの(国民)として国体(アメリカであれば、アメリカ民主主義)を守るという主体?的な意識を重視する…。ここでちょっと注意が必要なことは、アメリカの国体であるはずのアメリカ民主主義は、その前提として、主権者としての国民が作るもの、もしくはそうした国民が本来持つはずの基本的な権利等(例えば、自分のことは自分で決める的なもの)を守るために国家(国体)があるということで、そこの順番を間違えてはいけません。草の根右翼的に言えば、彼の作品の多くが義理と人情、人間の情動から来る内発的な意識を大切にして振る舞え、そしてそうした価値観が保証される社会とそれを守るために機能した制度を国家は持つべきであるという主張を垣間見ることができるはずです。
 だとすると、人の持つ内発的な意識を重視すると同時に、そうした国民の心のあり様を守るための制度とその理念的なものもしっかりしてないといけないということにも通じます。同様に教育の分野(哲学者として見た方が分かりやすいが…)において、子どもたちの内発的な意識を重視したデューイ氏は、まっとうな民主主義の上で教育はされなければいけない的なことを言いましたが、まっとうな民主主義が機能していなければ、教育をはじめとする様々な装置が健全な働きをしないということです。この点についても、彼の作品は指摘をしていると思います。つまり、現在のアメリカでは、国民が本来持つであろう内発的な意識による主権者意識を基盤として形作られたはずのアメリカ民主主義という制度そのものが劣化して揺らいでいる(例えば、金融資本主義への変化)ことに対する憂いも含んでいるように思います。今回の作品では、保守的な装いをしながら、伝統的な保守としての原則に無頓着なトランプ氏への批判も含まれている気もします。

 補助線的なことが長くなりましたが、以上の視点などを念頭にして、今回の作品を観ていくと、いろいろなことに気づかされます。偶然的な感じはしますが、なぜ、パリなのか、アムステルダムなのか…。アメリカの歴史を知っている方なら、フランスやオランダとアメリカの関係から、直ぐにアメリカ独立戦争(1775-1783年)のことを思い出すに違いありません。ヨーロッパやイスラム圏とのことも想起するかもしれませんが、独立戦争におけるフランスとの関係は、アメリカ建国と深い関係があるだけに、アメリカという国の原点を思い起こさずにはいられません。フランス革命などからの影響や、カトリックとプロテスタントとの関係による現在アメリカの宗教的な政治バランスなど…。どちらにしても、まさに建国の志であった、例えば国民の内発性としての自由や平等の意識などを取り戻すべきであることを気づかされます。
 また、映画の中で出てきた教育(学校)に関することにもいろいろなことを思い起こさせます。主人公の若者たちは、個性の強さゆえに公立の学校にいることができず、宗教系の私学に転校します。しかし、そこでも学校にはなじめずにいました。このシーンも重要なシーンだと思います。アメリカにおける公立の学校は、本来であれば個性が強い子どもたちの持ち味を引き出す場でなくてはならないのに、むしろ排除し1つ間違えれば病気にして医療的新市場に回収させようとする。そして、本来であれば、アメリカ発展の原動力を補完していたはずの宗教的な私学でさえも、内発的な才能を持つ子どもたちを包摂しきれない現状…。公的な制度や宗教のあり様が転倒してしまっているアメリカ社会に対する警告がここにあります。
 軍隊に志願した若者の一人が言います。彼は、人や社会の役に立ちたいと軍隊に入りますが、第一志望の部隊に属することはできず、それでも与えられた場所で努力をしますが、なかなか評価されず、それでも自分には何か大きな目的とか役割が担わされているはずだからできるかぎり頑張ると…。そんな気持ちで生活をしていた彼の前でテロ事件が起き、彼自身も負傷を負いながらも身体張って犯人を撃退し怪我を負った人を助けます。ずーっと現アメリカ社会からは疎外され続けられていたにもかかわらずです。おそらく、これは軍人(軍隊)賛美ではないことが、今までの話からも分かると思います。本来のアメリカであれば、当然のこととしてまっとうに評価されなければいけない人たちが、そもそも、そうした人たちが国民であり、社会の様々なところで国家を支えているんだということを忘れるなということであり、転倒してしまった社会のあり様を本来の当たり前の社会に戻せというメッセージなのではないかと思った次第です。

 ということで長くなってしまったので戯言はこれくらいにしますが、この作品では、その前半、いや3分の2ぐらいが、主人公である3名の若者たちの子どもの頃からのライフヒストリーが坦々と流されます。簡単に言えば、リアルタイムにおけるアメリカの子どもたちの暮らしです。そこには、今、アメリカが抱える様々な問題が凝縮されていました。そうした中で、次世代を担うアメリカの若者たちが何を失い、何を失っていないのか…。そして、どんなに後から人が作った教育とか軍隊とかというシステムを使い洗脳されようとも、失ったり失わせたりできないものがあり、そうした内発的な情動そのものが、アメリカ建国の志であることを今一度思い起こせというメッセージだったと思います。
 で、こんな感想を走り書きした後、これは日本の未来に対する予言的な作品でもあるなぁ~、と気づかされたのです。
 あと、エンターテイメント(アート)としての映画表現とか、表現活動としての政治性の話(資本主義)だとかもしたかったのですが、また今度の機会に…。(^^)/

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居場所カフェシンポ

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 先日、ずっと注目をしている学校内における居場所カフェに関するシンポジウムがあったので話を聴きに行ってきました。記憶が新しいうちに感想を書き留めておくことにします。

 まず、大前提としてこうした試みはたいへん興味深く僕たちが行ってきた運動とも意味的には親和性も高く、どんどんと広がってほしいと思っています。ということで、当日の会場での対話から触発されたことも含めて、感想的なものをツラツラと書き連ねていこうかと思います。

1.戦後日本における学校ならびに教育の環境
 このような日本における教育だとか、学校に関することを考えるとき、その前提として日本の特に戦後の教育、なかでも公的な教育の環境について再確認しておく必要があります。それはどうしてかというと、教育、中でも公教育はその時々の社会の体制や政権のあり方から強い影響を受けるからです。例えば、戦前の日本における軍事的な教育のようにです。だとすれば、戦後の日本やアメリカの教育はご存知のように民主主義国家であるはずなので、民主主義的な教育を行うことがその目標になるはずです。
 そこで注意が必要なことは、確かに、戦後の日本やアメリカの教育は民主主義的な国家の国民育成をその目的の1つとして展開されましたが、後年では民主主義の質そのものが大きく変化をしてしまいました。質の変化に対して多分に影響を与えているのが、戦後の民主主義国家を支えた資本主義という仕組みです。少し丁寧に見れば、資本主義そのものが、金融商品の取り扱いなどを中心とした金融資本主義に変化をしたことが教育に与える影響についても考慮する必要もあります。しかし、戦後の特に日本の公教育においては、今も昔も近代資本主義的な価値観の啓蒙を土台として展開されてきたことは間違いありません。あえてアメリカなどとの違いを言うのであれば、憲法9条などによって非軍事による平和主義が明確にされていることでしょうか。
 戦後日本の公教育の特徴の1つを明確にすれば、それは資本主義的な価値観の定着とそうした社会で有用な人材の育成ということになります。その中心となる価値観は、貨幣獲得への欲望の正統化と善き消費者の育成です。こうした戦後日本の公教育のあり方はある意味で成功したと言えるでしょう。その証左としては、学校信仰のような学歴社会の定着であり、先進諸国屈指の消費社会の実現です。

 このように否応なしに戦後日本の教育に影響を与えたであろう資本主義の性格として、きちんと知っておかなくてはいけないことは、その推進の原動力は「新市場の開拓」と「技術革新」であるということです。特に、前者の「新市場の開拓」については、その未開拓の市場が広く残っている時代はよかったですが、有限的な市場の限界に達してからは、新市場を開拓するには、市場を細分化(または、リセットして再領土化)していくしかなくなったわけです。この状況を社会学的に表現すると、社会の個体化が進むということなります。社会の個体化が進むと、そこでは、様々な現象が起きます。多くの方も経験しているかとは思いますが、その昔はあった地域における包摂的な共同体の崩壊などはそのよい例です。社会の個体化が進むとその影響は、社会システムや価値観の変化を進めるだけでなく、人間の精神にも影響を与えることになります。その代表的な例が精神の疎外化です。統合失調症などの増加には、こうした要因が背景にあるとも言われています。

2.国家的な教育・学校が持つ性格
 ということで、少し荒っぽい言い方にはなりますが、そもそも、教育とか学校とかが、国家とか社会的な構造から完全に独立していないかぎりは(原則的には不可能)、上述したような価値観や技術を次世代の人間たちに身につけさせるものであることは否定しようがありません。特に、公教育がこうした役割を担わなければ、その存在の意義そのものが問われる事態となるわけです。簡単に言って、現在の教育や学校は、ある意味で正常に機能しているがゆえに、子どもたちの精神の分裂や個体化を促進していると言わざるを得ません。ただ、こうした子どもたちの精神の分裂化や存在の個体化は、一方で国家としては困るものでもあります。このような状態が行きすぎると、そもそもの国家としての統合が崩れてしまうからです。なので、教育・学校だけではありませんが、各現場では、ナショナルなものであるとか、疑似共同体などを使って、急激な分裂の防止や再統合の動きをも並列的行うようになります。
 ともあれ、結果として言えることの1つは、今の教育、特に現場である学校は、オートマチックに分裂・個体化が進む者を生みだしていると同時に、そうした状況が進む社会に適応できる者の選別をする場となっているのです。こうした状況は、外部から冷静に見れば是正しなくてはならないものだと気づくかもしれませんが、既にこのような価値観の刷り込みは何世代にもわたり行われているので、学校などの外部にいる者たちも学校化された社会の中で自身もそうした意識を再生産し続けているので、変革の必要性に多くの者は気づくことがないのです。

3.現代社会における学校の状況
 これらの背景をもとにして、学校現場の状況を見直すと、直ぐに2つのことが分かります。1つは、今の学校とかになじめない子どもは、人間的には健全であり健康で、意図的に形成された資本主義的な社会発展を前提(優先)とした教育システム(刷り込み)には嫌悪感を感じ、自己の安全保障の担保のために少々距離を置いているのではないかと考えられること。そして、もう1つ気づくことは、前述した者とは逆に、強度の適応化によって一層の個体化(孤独化)を望む者の出現ではないでしょうか。どちらにしても、こと学校においては、自らがこうした子どもたちを生みだしているのですから、今後、こうした状況の子どもたちの数は増加しても減ることはないと思われます。ある意味でマッチポンプ的ですが、学校のみならず社会全体のこうした状況の拡大は体制側からしたら予想の範疇なのかもしれません。
 学校教育における従来の試みとしての疑似共同体づくりや、部活や道徳教育の強化などの再領土化(再コード化)の試みは、必要不可欠なサブシステムである可能性は大きい言わざるを得ません。しかしながら、強度に進むコード化の中において、体制の側から見たら不適応とされる人間は、そのコード化装置の機能強化がはかられればられるほど、その数を増やすと思われます。ゆえに、自分たちの行っていることの正統性を強化するために、一度不適応となった者でも、もとのレールに戻す、戻れるようにするための再回収の装置の強化に体制側は一層乗り出すことが予想というか、既に、あの手この手で着手しているのです。ただ、まだより有効な方法を見いだすまではいってはいないと思われます。それは、そうしたことを考える、例えば教師などをはじめとする体制側の多くの者は、十分に適応した者たちなので、不適応者を元に戻すような方法はなかなか思いつかないのです。
 しかし、こうした時の補完的な方法を彼らはよく知っています。義憤を感じた在野の者たちの自主性に援助などし試行させ、工夫させその方法が有効であれば、様々な手法を使い、自分たちの方法の1つとして取り込むのです。そこまでの流れは想定済みだと言えるのかもしれません。

4.運動として問われること
 まずは、そこで私のような活動の目的というか理念的なことが問われるわけなのです。その問いのポイントの1つは、活動の目的の1つが、現体制への適応支援なのかどうかということと、現社会的価値観の再生産なのかそれともオルタナティブとしての価値観の変革を促すものなのかということです。少し日和った言い方をすれば、折り合いのつくところで適応しつつ(生きることを担保しつつ)、価値観のオルタナティブを模索する試みという言い方もありはします。今回のシンポの学校図書室等で居場所カフェの実践を行っている方々とはそうした理念・目的論は議論をしていないので、どちらの方向性を持たれているのか分からない関係上、ここからは会場での発言などだけから触発された点を勝手に述べていきます。
 一言つけ加えておきますが、当然のように、私などの活動は、適応・再適応支援ではありませんし、むしろ、価値観の変革を促すのが目的です。私たちの運動の理念や方法についてお知りになりたい方は、以前書いた『居場所づくりの原動力』(松籟社、2011年)や『沖縄平和学習論』(榕樹書林、2014年)等を読んでいただき、機会があれば私が行っているオルタナティブ教育論の授業などを受けていただければ幸いです。

 結論的なことを先回りして言うと、現場では、いろいろな意味で私たちが経験したことと同様なことが起きているのが分かります。いくつか紹介してみましょう。その多くが教員側からなどの視点からということになるでしょうか。例えば、学校内におけるこのような試みに対して、教員側の受け取り方は2通りです。1つは、距離を置く者のたち。その多くの場合に想像される意識は、会場での話にあったように、カフェを目的として登校してくる生徒の増加に伴い、本来の自分たちの本義である授業を通しての学びの喜び等の保証が不十分であることを意識すると同時に、学校の中で自分たちが保証できない学びを突きつけられることに対する拒否感。そして、もう1つは、自分たちができない学びの保証であることを自覚した上で、再回収装置(サブシステム)として学校全体の機能アップ(学校の評価アップ)を考え積極的に活用して(取り込んで)いこうとする意識。後者の意識は、協力的な意識として管理職等に多いような気がします。
 そして校内のカフェなどの場では、私が言うところのディアローグ的な対話が起きていることです。ただ、この点についてはこうした場を作れば誰しもがこのような対話をできるようになるのかというと、中心となっている人のセンス、もしくは支援者トレーニング(スタッフ養成などの課題)をしたかどうかという点において差異はあります。

 最後に
 では最後に、こうした実践運動が引き起こすものについて少し考えてみます。
 実践をしている方々と議論をしたわけではないので想像の域を出ることはできませんが、その目的に関係なく前述したように、その現場、それも学校内という現場においてディアローグ的な対話が発生していることは非常に重要です。そのメカニズムについて知りたい方は、重ねてですが私の著作やオルタナティブ教育論の講義を読み聴きしてみてください。なかなか話しをする機会がなく、一方的な物言いになってしまい申し訳なく思っています。興味がある方はお声をかけていただければ話す機会を作ります。かいつまんでポイントだけを話すと、ディアローグ的な対話の積み重ねは、存在論的差異を引き起こします。そして、その継続的な実践は、代補の運動になるということです。結果として、脱構築的な階層秩序の破壊が起き、教育内ならびに学校内における価値観の転倒、すなわち変革が引き起こされるということです。こうした流れは、私が意図している戦略と重なります。ということで、私の結論的な感想は、こうした実践をどんどん広げること(但し、数による体制からの抑圧への転換期には注意が必要)と、スタッフと言いますか、支援者の養成システムの確立は必要かもしれません。
 と、勝手な感想を書きました。何かの参考になればうれしいです。

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未来は

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 最近いろんな人と話しをしていると、日本の将来について語るとき、2つのタイプの人がいることに気づきます。1つのタイプは、たいへん悲観的で強い危機感を持っている人たち。そしてもう1つのタイプは楽観的で、ちょっと厳しい言い方かもしれませんが、刹那的でそんな先のこと考えてもしょうがないでしょという人たち…。まぁ、人間の習性として、ある社会の未来について語るとき、こんな2つのタイプに分かれるということ自体は、ごくごくふつうのことなのかもしれません。
 それで、僕が興味を持ったことは、ある意味で、近い環境にいるにもかかわらず、人によって反応がこのように180度も変わることです。確かに、90年代後半以降の日本は、新自由主義的政策などの推進により、一層の格差社会化が進みました。したがって、今日本の現実は物質的にも精神的にも相当に分裂が進み、特に、生活していくのが厳しい状況におかれている人々からすれば、日本の未来は悲観的なものにならざるを得ないのはしかたがないことだと思います。ましてや、さらなる資本主義的な発展を望むとしたら、こうした状況が訪れるのは一般的な結論なので、ふつう政府は推進すると同時にセーフティーネットの拡充も行うはずなのですが、日本政府は無頓着でした。せいぜい政府筋が行ったことは、分裂していく国家を再統合するためにナショナルな意識を煽ったことぐらいでしょうか…。

 さて、ここまでのと言いますか、今後のと言いますか、流れ特に近代以降の資本主義的な国家においては、何度も言ってはいますが、歴史の常において放っておけば自動的に戦争でリセットされるわけなのですが、どう考えても戦争によってリセットされるのは嫌だというのは国民の総意だとは思うのですけれど…。政府は、絵に描いたような戦争準備と言いますか戦争のできる国作りを着々と進めています。今のところ戦争以外の代案は示されていないようです。ただ、危機感を持つということで、軍事的な補強が必要だとの主張に対しては、少々違和感を感じています。その対象となるであろう某国は、一義的な攻撃目標は在日米軍基地だと言っているわけですから、日本から米軍基地を無くせば攻撃する理由はなくなるはずですし、同時に日本の主権を回復するわけですからナショナルな主張する方々から見ても同意できる話であるはずなのですが、あまりそうした点には触れられていないのが違和感を感じる理由です。

 と今のところは、そんな見え見えな未来に対して、危機的ではない一方の人々は、なぜゆえに楽観的でいられるのでしょうか。理由はいくつか考えられますが、1つには、やはり教育による規律化の成果ということになるでしょう。国家と言いますか政府が考えている方向性がそのまま国民の主体意識として刷り込まれてしまっているので、実際との差異には気づくことなく、政府の方向性=自身の意志だと思い込んでいる。そして、もう1つの理由は、本当に危機的な状況が来ることが予想されるので、生き物としての本能的な自己防衛機能の稼働により無意識的にそのことを考えないようにしている。こうした雰囲気は、日本ではその昔に経験した気もします。

 どちらにしても、より一層の分裂や戦争によるリセットという未来を呼び込まないようにするには、個人による自律主体によって選択し、自らの手で未来を切り拓かなくていけない局面であることは間違いない気がしているのですが…。それにしても、日々の暮らしが立ちゆかない状況は、精神を虚無的にさせます。ある意味で、正気を保つには、正統的な意識を創りだすアート(創造的)な活動が必要だと思うこの頃です。

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二重意識

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 最近、若者と部分部分ではありますが、ポール・ギルロイさんの『ブラック・アトランティック』の読み合わせをしています。この著作は、欧米で暮らすことを余儀なくされた黒人たちの文化・思想・歴史等を通じて、彼らの精神性を背景として近代性ならびに近代化の本質の理解を試みたものです。特に、これらの分析の重要な道具立ての1つとして、「音楽」が使われているところが、たいへん興味深い切り口となっています。

 僕自身は、既に昔に読んだことがある著書ではあったのですが、諸事情から再び読むというか、この著作を材料として対話をくり広げることになったのです。結果として、一人で読んだときには気づかなかったことが、次々と浮かび上がることになりました。ディアローグ的対話の効果は大きいなと改めて思ったのでした。そこで新たというか、再確認した部分なのですが、それは、二重意識という部分です。この二重意識とは、当著の中では当然、黒人における二重意識ということになるのですが、改めて読んで気づいたことは、日本人に重なる部分、そして僕自身に重なる部分の発見です。

 まずは日本人(日本とか日本人とかと表現するとき、その定義づけにいろいろと違和感を感じますが、一般的な意味で漠然と使います。)と重なる部分については、当著で言うところの近代化、言い換えれば欧米化ということになるかもしれません。そうだとすれば、日本における近代化(欧米化)とは、明治以降の話となるわけなのですが、そうした欧米化の波について、日本で暮らす人々は黒人たち同様に、欧米化に対する二重意識を持ったに違いありません。その二重意識とは、簡単に言えば、「恐怖」と「擁護」です。そして、その背景にある精神性は、前者はそんなものがあるのだとしたら、日本に住む人々が持つであろう日本人ならではの本性性の喪失であり、後者は、発展すること、特に資本主義的な発展を担保した科学性(理性)ということになります。
 黒人たちの場合は、否応なしに欧米社会を移動させられた結果の近代化であり、日本の場合は、近代化が向こうからやってきたという違いだったのですけれど、近代化の波に曝されたときの人々の反応は、多くの共通点があったように感じます。辛口の言い方になりますが、まさに物理的な移動は伴わないままに、精神がディアスポラ化したということになる気がします。その精神構造を単純に説明すると、日本人としてのアイデンティティの喪失に対する不安と同時に、そうした日本人としての本性性に対する誇りすらも商品の1つとして回収し貨幣の獲得に結びつけるような科学性に対する畏敬の念…。つまり、この両義性こそ、近代化の正体の1つであるということです。こうした構造を明らかにする切り口の1つとして、ギルロイさんは、黒人の音楽を取り上げたのです。こうした道具立てに芸術ならびに芸術活動を用いる意味を考えるには、例えば、ハイデガーの芸術論を参照する必要がありますが、今回は詳しくは触れません。一言だけ言えば、芸術活動とは、近代化/科学化などによって覆われてしまった作品が本来持つ存在としての本性性を顕在化する試みであるということです。

 そして自身の話に重ねれば、と言ってもここからの話を詳しく展開するとたいへんなことになるので、知りたい方はお気軽にお声をおかけください、機会がある時に説明します。何だか予告編みたいですが、僕の場合は、近代化/教育化などという視点も含みつつ、僕の二重意識の本質は、「スペック/本性性」と「理性/科学性」ということになり、この両義性をどのようにして統合し、その在り様を正統化すべきかという葛藤と恐怖の日々との闘いということになります。そして、こうした二重意識を超え現代を生き抜く術が学びであり、学び続けることが、代補の運動、すなわち脱構築であるということになり、さらに付け加えるとしたら、こうした二重意識(両義性)こそこれらの運動の原動力となっているのだと思われます。

 ということで、ほんのほんのさわりの話ではありましたが、若者との対話(学び)が、紛れてしまっていた僕の本道の意識を顕在化させるよいケース紹介となりました。蛇足ですが、こうした学びの実践は、当然、僕が持つスペック/本性性の意識をも活性化します。もう、お気づきの方もいらっしゃるかとは思います…。やはり、そこが僕の存在の意義なのかな~。と、また、揺らぐのでした。(^^)/

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嘘か真か

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 僕は、実際に現場に行き、そこに住み生活している人たちと対話をします。その数は、1人2人ではありません。累計で言えば、何十人、何百人となるでしょう。結果として、現場にいる人々の考えを知ると同時に、彼らの背景も知ることになります。さて、それが真実か否か…。確かに、僕に会う何百人の人が、全て同一のグループに所属をし、意図的に僕に嘘の情報を流したとすれば、僕は、簡単に騙されることになるでしょう…。もし、そうしたことを、一市民に対して、意図的に行おうとすれば、第一に莫大なコストがかかることが予想されます。さらに言えば、そうした嘘の情報を植え付けるほどの価値が僕にあるのだろうか?どう考えても、何十万の人に影響を及ぼせるほどの能力と可能性を僕は持ち合わせてはいません。したがって、現場に立つ僕をコストと時間をかけて騙すほどの価値はないはずと、僕は思いたい…。

 さて、話しは変わり、今、インターネット上などには、明らかに真実ではない情報が流れ、それを真実だと主張する人々が存在します。その多くの人が、可能な場合、せめて現場に行けばその真偽のほどは直ぐに分かるはずです。まぁ、実際には全ての人が現場に行けるわけではないので、せめてそうした場合には、映像等で流されている情報の判断には慎重であるべきです。
 しかしながら、一方でたとえ映像や音声が真実であったとしても、そうしたリソースを読み解き理解する力がなければどうしようもありません。先日もベタで流された会見映像を見たときその会見者の発言が、どの角度から見聞きしても僕にはAとしか理解できなかったことが、ネットの中では真反対のBという理解をする人々がいることを知りました。これはどうしたことなのでしょうか、確かに、同一の出来事でも見る角度によっては見え方が変わるので、1つの事象に対する様々な見方や考え方があってしかるべきですが…。
 ここで僕が思い浮かべる言葉は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」です。僕は、この言葉の意味を、「そう思っている自身の意識が、既に何者かによってすり込まれた意識ではないかと疑え」と言ったのではないかと理解しています。

 例えば、前にも言ったように、日米地位協定は明らかに日本の人々の主権を侵害しています。そうした場合、世界では、市民の中から主権回復運動が必ず起きます。それが、民主国家においてはふつうのことです。以前紹介したリテラシー運動なども、その最たるものです。ある国の価値観を、例えば、その国の経済的な意味での市場の拡大獲得を目的として文化や情報を、ネットワークに乗せ他の国へと流したとしたら、自分たちの文化を放棄することを引き替えとして、他の国の戦略的文化を受容するとしたら、それはある意味で、自分たちの主権的自立を失うことになります。したがって、そうした意図を理解した上で、ネット上で拡散するような文化的な情報などを理解する必要があるわけです。これが例に上げたリテラシー運動の問題意識の中心であり、まさに主権回復運動ならびに自己決定権を取り戻す運動の1つの姿です。
 そうした視点から見たとき、日本における本来のナショナルな主張などは、日米地位協定等の存在をきちんと認識した上で、侵害されている私たちの主権を取り戻そうという主張等を土台として、今、起きていることの真意を理解し批判すべきは批判をしていかなければならないと思うのですが、前提となる部分への言及は皆無のまま、表面的な部分だけに感情的な批判を加える様子には、愛国であるがゆえの主張であったとしても大きな違和感を感じざるを得ません。もし、ある権益者とか権力者が、意図的に市民の主権意識を隠蔽・脆弱化するように仕組んできたのだとしたら、まさにその成果が出ているのが現在の日本社会のような気がしてなりません。
 まぁ、話しが広がってしまったのですが、僕にとっては誰かが主張したり批判をするとき、その土台意識として日米地位協定のことや、国内に外国の軍隊が治外法権で駐屯していることなどをどう考えているか、その人の意見や視点の真正性を判断する材料として重要視しているわけです。こうした政治性を孕む話しは、自分たちの表現や主張や運動とは馴染まないとか、無縁だと思った人には、今一度、「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの言葉を贈りたいと思います。(^^)/

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評価するのは誰…

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 気がついたら、あっという間に前期の各授業も終了です。あとは、レポート読みと成績つけです。僕にとっての苦行は、なんと言っても成績つけです。一番難儀なことは、減点式に評価を決めることです。なので、僕は原則、加算式で評価を決めるようにしてます。簡単に言えば、できるようになったというか、新しく学びとってくれたことをきちんと評価するという視点です。あれもこれもできるようになったということで、ともかく、学習者自身がアピールというか表現できる機会を多く作り、達成できたことを積極的に評価するようにしています。

 確かに、評価では客観的な部分も必要かとは思いますが、基本はやはり自己評価だと思います。例えば、数学のいわゆる成績がよい人に、「あなたは何を学びましたか?」と尋ねたら、「2次方程式を解けるようになりました。」とか、「解の公式を覚えました。」などと答えるかもしれません。技術や知識を覚えることは、学んだことの一部かもしれませんが全部ではありませんし、ましてや、最も重要な点というわけでもありません。それも、誰かに与えられたものを暗記したとかというのだけでは、本来の学びとは言えないでしょう。こんな回答はあり得そうにはありませんが、理想としたら、「二次方程式の解き方の学習を通じて、こうした考えを引き出し、必要とした数学者たちの考え方を共有することができ、数学を学習することが、人々の暮らしにおける生きることの意味に繋がっているのを学ぶことができました。」。まぁ、あまりにも理想的過ぎますが…、こうした指摘には、学習する側だけではなく、教える側の問題、すなわち、数学を通じて何を教えるのかという、教える側の意識の問題も関係していることに気づかれたと思います。で、今回は評価の話なので、話を元に戻して、学びの本質は、いかに学習者自身が、十分に(イキイキと)学んだなという意識が持てたかにかかっています。
 となれば、学んだことに対する評価の中心は自己評価であることが自然です。ある条件を満たしたような1つの集団における相対的な評価は、その集団におけるある要素を中心とした位置であるとか、教える者の力量の差異を前提とする結果は、あくまでも参考的なものであって、学習者にとっての真の評価とはなり得ません。

 そこで最近の僕の授業では、授業の最終日に自己到達度テストを実施しています。テストという名称をつけるのは嫌なのですが、振り返りという意味も込め、とりあえずテストという名称をつけてはいます。内容は、今回の授業を通じて学習者自身が学びとったと思われることを様々な角度から再認識してもらうことと、全体として自身の学び度合いに評価(便宜上10段階評価)をつけてもらい、その理由も記載してもらうというものです。このテストの詳細はなかなか興味深いものになるのですが、紙面の関係上、1つだけ特徴を紹介しますと、僕とかがいい学びをしたな~、と思う学習者ほど、自己評価、例えば10段階評価の点が低く厳しい評価を自身に下すということです。この傾向は、なかなか興味深いでしょ…。なぜ、そうなるのか、僕なりの分析を書きだすと長くなるので、言えることを1つだけ、学ぶことの意味を理解している人ほど自己評価は厳しくなると言うことです。逆に言えば、まじめに勉強している人ほど、従来の評価基準が意識に染みこんでいるがゆえに、点数とかに出ない真の学びに興味を抱いたことを正当に評価できないということです。

 本来、生きることに直結している学びとは、充実し楽しいものであるはずなのに、点数などによる評価対象からはずされ続けてきた結果、本来の学びを自身で評価できなくなってきている…。ここにも日本の教育の課題とか問題が(自己決定権、主権等)潜んでいると思われるのですが、愚痴が過ぎるとよくないので、今日はここらへんまで…。では、また。

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主権在民

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 今週、うすぼんやりと考えていたことは、国民の主権についてです。ここで僕が想起している主権とは、「自分のことは自分で決めさせて」という意味で、言い換えれば、自己決定権ということになるでしょうか。昨今、世界の動向としては、グローバル化なるものが進んでいるので、各国とも国家的な主権は当然抑制されてきているわけです。それで、多くの先進諸国は、国民国家で民主制を採用しているので、国家的な主権とは、国民主権のことを意味します。したがって、グローバル化が進むことによって、国民主権が侵害されることになるのですが…。

 国民主権がないがしろにされるということは、自分のことを自分で決めることができない状態に陥ることを意味し、言い換えれば、自己決定権が剥奪されることを意味します。こうした状態に何年かにわたり国民が曝され続けると、個々の政治性とか思想性とは別としても、多くの国民は、時の為政者というかグローバル化を強固に推し進めようとする体制ならびに権力者に対して、何らかの形で異議を申し立てるようになります。20世紀の初頭に起きたグローバル化の結果、先鋭化し引き出されたものが全体主義であったことは記憶に新しいです。

 こうした視点から考えると、少し前であれば、イタリアのスローフード運動やカナダのリテラシー運動など、そして最近では、イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ現象、フランスでの極右勢力の台頭などもそうした動きの1つであると言えるでしょう。このようなグローバル化に対する国民の自己決定権回復運動的なものは、それがいわゆる右派的なものであれ、左派的なものであれ、 歴史の中では何度か繰り返されてきました。国民による抵抗が起きるという点において、近代以降の国民国家の特に民主国家における国民は、自分たちの主権が侵害されることに対して敏感であると言えます。

 そうした世界の状況にあって、僕が思ったのは日本のことでした。イギリスやアメリカなどと同様に日本でも、1990年代後半より新自由主義政策を筆頭にして否応なしのグローバル化が推し進められてきました。そうした政策を支えたキーワードが「多様化」であったり、「選択の自由」であったりしました。そして、実行した結果、引き起こされた失敗については、「自己責任」という逃げ言葉が用意されました。戦後の強力な経済発展政策によって、既に国内における国民の自己決定権は脆弱なものになりつつあったところに、さらなるグローバル化の波が押し寄せたのです。国民の自己決定権の後退、すなわち主権の侵害は覆い隠せないものとなってきました。ここまで主権を侵害されたとなれば、本来なら左右の思想性などには関係なく、自己決定権回復運動が国内の各地で起き、1つの政治的な声となってもおかしくないはずです。しかし、日本ではそうした主張を前面にした運動は未だ大きな運動とはなっていません。

 事例としては、少し遠回しな話となってしまいますが、例えば、日米地位協定等の話を授業などですると、この問題の本質の1つが主権の侵害であることに気づく人は少ないですし、自分たちの主権が侵害されていることに対し憤る人も少ないのが実情です。僕は思います。日本の人は、自己決定権の大切さ、もとより国民主権であること、つまり、主権が国民にあることの大事さにどれほどの人が意識と理解をしているのだろうかと…。
 一方で、もう1つの心配事は、グローバル化による抑圧によって引き出される国民の対抗意識が、単純に感情の吹き上がりに結びつけられ、ナショナリスティックな全体主義とならなければよいなと思います。それにしても、日本の人の主権意識の低さはどうしてなんだろうと思い、これは主体の問題とも重なるな~、と一度整理し考える必要があると思っています。長くなったので、今回はここまで…。

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「自律」と「自由」

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 このところ授業で、「自律」「自由」の話をする機会が何度かありました。「自律」も「自由」も欧米由来の概念のため、 まずは、近代以降の欧米社会における「自律」「自由」のグランドセオリーの1つとして、やはりカント先生の考えを紹介することから始めました。それで、カント先生は、その啓蒙に関連する著作の中で僕流の解釈では、自由と自律の関係について、大体、次のようなことを言っていらっしゃいます。「自由とは、啓蒙により生起する悟性によって獲得された自律的主体意識による道徳的行為で実現されるもの…。」。まぁ、ポイントは3つぐらいあって、自由の意識は元々、皆持っているのだけれど意識されていないので、まずは啓蒙(教育)などによって隠されてしまっている意識を引き出す。そして、自由は、自律的な主体意識による道徳的行為で実現されるもの。3つ目として、肝心なポイントは、自由の意識の基になるものである自律的主体意識と、それによる道徳的行為は、超自我的なものとして全ての人に備わっているものだということです。

 あっ、そうそう、そもそもなんで「自律」とか「自由」とかという話になったのかというと、僕が実践している教育の柱(理念)が、「自由」「自律」「平和」なので、僕が考えている「自由」とか、「自律」とか、「平和」の意味とは何なのかという説明の流れで、詳しく話すことになったのです。 で話しを戻して、カント先生の話を手がかりにして、もう少し詳しい話をしていくと、まず、「自律的主体」という点についてです。ここで言う主体による自律を考えるとき、注意が必要なのは、やはり「主体」ということです。今までのブログなどでの話からも気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、どうやら「主体」には2通りあることが予想されます。1つの「主体」は、人が国家的な教育などによってその意識を超自我化され「主体」と思わされているもの。そして、もう1つの「主体」は、人間が生きていくために本性的に身につけているはずの本能的な意識。本文では、前者の主体による自律を「国家的主体自律」と呼び、後者の主体による自律を「個人的主体自律」というように分けて呼びたいと思います。
 おそらく、近代以降のヨーロッパ社会などにおける「自律」は、「国家的主体自律」を無意識的(中心的)に指していると思われます。その理由は、簡単に言えば、近代以降の特にヨーロッパでは、既に国家があり、そこで国家的教育(啓蒙)などによって、国民が作られていた(主体化/規律化)からです。ゆえに、個々人の自然権的な意味での主体の存在は、かなり紛れてしまったと言えるでしょう。ちなみに、僕が目指している教育は、「個人的主体自律」であるところの「自律」を、保証実現しようとしているのは言うまでもありません。

 それで、前述したような「自律」による「自由」ということになるのですが、ゆえに、「自由」も大きく分け、2つの「自由」があるということになる訳です。まずは、「国家的主体自律」であるところの「自律」によって実現される「自由」です。簡単に言えば、「政治への自由」ということになります。この「自由」とは、国家の価値観が反映された「自由」で、国家の存在(その国の存在規定/憲法など)によって保証された「自由」ということになります。具体的に言えば、「アメリカの自由」であり、イギリス・フランス、はたまた中国の自由ということになります。前述したように、近代以降の世界では、「自由」というと、多くの人が国家に属して生活しているので、「自由」と言えば、国家的主体自律による「自由」が唯一の「自由」であると思わされている節はあります。
 
 一方、「個人的主体自律」による「自律」で実現される「自由」とは、国家という枠組みの中で言えば、そもそも、全ての人間に保証されている「自由」で、基本的人権や生存権等に属している「自由」ということになるでしょう。この「自由」をあえて表現すれば、「自然からの自由」という感じでしょうか。しかしながら、こちらの「自由」においても、近代以降の世界においては、既に憲法のような法によって規定されている国家内での「自由」となってしまうので、法ありきの視点から見れば、この「自由」においても「政治への自由」に回収されてしまう傾向は強いと言わざるを得ません。逆に言えば、この「自然からの自由」を獲得するには、その自由を保障しているであろう国家のあり樣が、重要な要素になることにお気づきだと思います。

 このように、前者の「自由」であれ、後者の「自由」であれ、近代以降の国家においては、その自由は、国家内自由の傾向が強いために、最終的な獲得自由は、「政治への自由」となってしまうのですが、それゆえに、憲法による国家規定が相当に重要となる訳です。例えば、日本の場合は、非軍事国家ですので、日本における自由とは、それが政治への自由であったとしても、その自由は、軍事によって確保される自由ではないということになり、他の、特に欧米諸国の自由とは、その前提から違うということになります。
 このことは、こと教育の分野にとっては、非常に重要な前提となります。僕の場合は、非軍事によって規定をされている国家内において、個人的自律主体による自由の獲得を目指す教育を行っていて、その方法としてディアローグ的な対話による学習を重視しています。細かい説明はしませんが、その視界には、「自然からの自由」、すなわち、僕流に言えば、「学ぶ自由」(生きるために学ぶ)の獲得が入っており、ダイレクトに真の他者、つまり、「イノチ」の存在の重要性を理解するという目的を明らかにしているということになります。

 ちょっと込み入った話になってきてしまったので、「自律」「自由」の話はここらへんにして、「平和」についての話は、また、機会があるときでもしましょう。それでは、また。(^^)/

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戦争を考える

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 まず、単純な話ではあるのですが、僕は戦争は絶対に嫌なのです。日本のテレビや映画の、特に、昭和以降をテーマとしたドラマなどの場合、その中では必ず先の戦争に関係するエピソードが差し挟まれます。場合によっては、そのドラマの柱となる要素である場合もしばしばあります。そのように表現された日本の過去の体験の多くが実際に起きたことだとすれば、戦争は、人々の大事なものをいとも簡単に奪っていきました。人々がふつうに暮らしていくことを破壊していく戦争という事態は、心の底から僕は嫌なのです。

 しかしながら、近代以降の世界の歴史を振り返れば、人類の歴史は戦争の歴史と言ってもよいと思います。特に、世界の経済動向と相関させれば、ここでも何度も紹介をしているように、世界は、〈バブル→恐慌→戦争〉というルーティンを変えてはいません。そして、既に人類は何度か経験をしてきた大戦が、国民をも総動員するような全体的な戦争であったことを知っているはずです。別の言い方をすれば、近代以降の戦争の多くが、国民の協力がなければ遂行できなかった総力戦であったということです。
 先の戦争では、国民は権力側にメディアや教育などを使い騙され、知らず知らずのうちに協力をさせられてしまったんだという話が聞こえてきます。時の為政者たちが、個々の利益を中心とした経済的な発展を確保するために、政治と癒着し発展のために利用価値の高い国民を作ることを目的とした政策をもとにして、その実現のための装置としメディアや教育を活用した結果というか成果が現れたという事実も、確かに否定することはできないと思います。とはいえ、例えば、開戦当時の日本の一般的な人々の手記などを読むと、その多くのものが、戦争を行うことにしかたが無いというか、むしろ賛同しているかのような心情を書き残しています。なぜ、そんな心情と人々はなったのか…。
 人々の心情だけに絞って当時の状況を見てみると、多くの人が生き辛い世の中であると思っていたふしはあります。人々が生き辛いと思う社会的な背景は、やはり、未来に希望が持てない時だと思います。未来に希望が持てない世の中だから、何かの契機によってリセットしようとするのか…。それとも、特に、経済的(物質的)な発展が滞っているがゆえに、未来に希望が持てなくなっているのか…。欧米型の近代社会を模倣するようになってからの日本は、おそらく後者の傾向は強いと思います。つまり、近代以降の日本社会は、経済的な発展をすることが国民も含めて、社会のしあわせというか未来を保証するものだということを前提としているような気がします。こうした前提があることは、自身の利益を拡大させようと目論む少数の権力者からしても都合のよいものだと言えるでしょう。例えば、市場の限界や技術革新の後退などによって、発展の限界が見えてきたとき、戦争などによって全てを一度リセットし、再発展を目指す方法は効率がよさそうに見えます。ただ、近代の戦争は、先にも述べたように総力戦の形をなしますから、国民の協力は不可欠になります。ゆえに、日頃から、〈経済的な発展の停滞=生き辛い〉という意識を国民に埋め込み、それを打開するためには、戦争もいたしかたないという意識を作っていたのではないでしょうか。

 ただ残念なことに、こうした近代以降の社会の構造は、資本主義的な社会構造を土台として経済的な発展を目指す限りは、オートマチックな流れであり、そのことは、資本主義の家元である欧米の科学者たちも指摘をするところではあります。で、おそらく、リセットをして再スタートするという機能においては、戦争の勝ち負けは関係ないということです。リセットして市場の線引きを変えたり、新たな技術革新の契機にしたりすること自体が重要なわけです。単に貨幣を獲得することを目的とする経済的発展を目指しているかぎりは、こうしたルーティンは終わることなく繰り返されることでしょう。
 さて、そこで現在の日本です。戦後の装置は全て機能通りに動き続け、資本主義社会も機能通りに滞り、国民たちの生き辛いという心情も予定通りに醸成され、ここまでのところ近代以降の歴史のリプレイを見せられているかのようです。他の国のように、自らが戦争などによるリセットボタンには、幸いなことに強力な安全装置がかかってたがゆえに手をかけてはいません。もう既に、その安全装置は解除されたとする向きもありますが、安全装置としての憲法9条が実質無効化されれば、形はともあれ戦争という装置は自動的に稼働し出し、国民の多くは生き辛さを解消するためには仕方が無いと抗うことなく、その流れにのまれていくことになるのではないか…。

 こうした状況を鑑みるに、おそらく、私たちはこのような流れに対して、意識的にストップをかけるとか、代案を提示し実行するとかしないかぎりは飲み込まれる…。あえて言えば、正気を保つことのたいへんさ…、そんなことをしみじみ思う今日この頃です。ともかく、僕、戦争は絶対に嫌なんです…。

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遊泳注意!

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 最近、批判をすることが、何か悪いことのように言われる場合が多い気がします。まったく単純な話ですが、批判=否定ではありません。ましてや、政治に関係する世界などでは、批判がなければ政治とは言えないでしょう。いつ頃から、批判することが疎まれる風潮になったのかなぁ~、と考えてみました。ただ、最近疎まれる批判とは、自分たちの考えや想いにそぐわない考えや意見を持つ人々からの、主張や意見全般を指しているような傾向が強いと思われます。
 ちょっと遠回りな話しになりますが、2つの視点から最近のこうした風潮を考えてみたいと思います。まず1つの視点は、日常生活の場からです。日常生活と言っても僕の場合は、若者たちと対話をするというのが、日常の生活の中における中心となります。そうした場において、ここ何年かの間で感じることは、いわゆる日常の雑談とかという場ではなく、何らかのテーマを決めた議論などの場においても、厳密に言えば、批判というのではなく意見と言った方がよいかもしれませんが、相手というか、誰かの意見に対する批判というのは、あまり聞かなくなりました。
 そうした議論的な場においても、まずは相手を批判するような意見は、まったく出ません。確かに、日常の生活の場において、誰からか面と向かって批判をされれば、言われた方は胸が痛くなるでしょうし、言った方との人間関係もギスギスしたものが残ったりするでしょう。だから、人間関係の調節方法として、よほど親密な関係を望まないかぎりは、そうした批判を言い合えるような関係性にまで踏み込まないのがふつうではありますが…。意見を言い合うことを目的するような場においても、なかなか、相手を批判するような意見は出なくなりました。こうした状況をよく言えば、日本の特に新しい世代は、相手の気持ちをおもんばかり、相手が傷つくであろう言葉は差し控えるというやさしい気持ちの醸成の結果であると、考えることができるかもしれません。そのことがいいことなのか、悪いことのなのかの判断は先送りして、もう1つの視点からこうした状況を見てみます。
 もう1つの視点は、やはり、政治的な領域における視点です。こうした話をするときは、以前にも紹介したように、政治とは何かという話からしなくてはいけなくなるのですが、長くなるので、ウェーバー先生の主張を援用しつつ僕流に言わせてもらえば、(主体的)に表現するものは全て政治性を孕むとします。つまり、生活全般は政治性から切り離すことができないということです。とすれば、政治とは生活全般そのものということなり、生きていく上で欠かすことできない要素の1つとなります。その政治の中心、特に近代以降の民主的な政治に欠かすことのできないのが、自由にできる議論であり、その手法の1つとしての批判であり、批判の精神であったはずです。逆に言えば、自由に批判し合える環境を保証していくことが、近代民主主義の本懐であったはずです。さらに言えば、このことは、民主的な生活圏を維持していくための国民側のむしろ権利であり、自由な批判の場がなくなることは、民主的な社会の後退を意味するものだと思われます。したがって、どこかでさし聴いた「批判なき政治」なんて、そもそも、それでは民主政治と言えません。それは、民主国家の放棄かつ独裁国家宣言みたいなものです。

 なんとなくまとめます。大事なポイントは2つあるような気がします。1つは、ここでも何度も言いましたが、大きな権力を持つ、例えば政府だとか、為政者側が国民を批判することと、国民が政府などを批判することは、近代の民主的な国民国家においては、その立場の前提から違うのですから、意味がまったく違うということ。当然、国民から政府に対する批判の自由はきちんと権利として保証されなければいけません。むしろ、政府に対する健全な批判は、民主国家であることの証明となるでしょう。
 そして、もう1つのポイント、こちらの方が今回の話しの肝かもしれません。それは、国家というか、政府は批判多き国民を嫌うということです。基本、為政者側は国家や政府に従順な国民を作ろうとします。最近の日本では、政府は国民が主権在民である意識を持つことを嫌っているように感じます。というか、時々の政府が国民の持つ権力に対する批判的精神を希薄にするために、様々な施策を行ってきて、その成果が実りつつあるということなのかもしれません。証拠に、批判を嫌う人々の主張の多くが、無意識的というか意識的にというか、本来であれば権力を持つ者と持たぬ国民の立場は非対称的であるはずなのに、あたかも、権力者であろうが、ふつうの国民であろうが、同じ立場であると、例えば、基本的人権などを持ち出し、国民が権力者を批判するのを批判するわけです。自身の非対称性は健忘したか、隠蔽した上で、権力者側の代弁者のような振る舞いをふつうの国民がするようになってきています。これでは、「批判なき国民」を作ろうとしている権力者側の思うつぼです。
 ということで、僕としては、多くの人々が健全な批判精神を、特に生活世界の中に取り戻してほしいと願うのでした。

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