So-net無料ブログ作成
検索選択
前の10件 | -

加担はしたくないのです。

ajisai201706.jpg

 6月23日が近づくと、自然と若者たちに沖縄の話しをする機会が多くなります。いろいろな話しをするのですが、沖縄の人々が、基地の存在を反対する理由の1つとして、市民を殺す戦争に加担し続けるのは嫌だ、というのがあります。自身も戦争による実際を経験してきた沖縄の人々、自分たちの故郷にある基地から戦争がある度に、市民を殺戮するための機械や人が派遣されていく…。そうした基地の存在を許し続けることが、ある意味で、そんな戦争遂行に自分たちも加担し続けているのではないかと、自責の念を抱くことに繫がるのは、人としてごくごくふつうの意識だと思います。多くの日本の人々が、こうしたふつうの気持ちを失ってしまったとは、あまり考えたくはないのですが…。

 実は、僕が教育・社会的分野で活動している原動力の1つとして、加担したくないという気持ちがあります。どんなことに加担したくないのかと言えば、それは自身の生命も含め、他者のイノチを奪ったり、奪わせたりすることに加担したくないというものです。確かに、特に人間は身勝手で、自身が生きていくためには、多くの生き物のイノチを奪いながら生きてしまっています。さらには、細分化された社会の中では、自分が何気なくした行動が原因で、遠くのどこかのイノチを奪ってしまっていることも多くあるでしょう。
 それでも僕の意識の中では、極力イノチを奪うことはしたくない、特に、人間が人間自身の都合によって作り出してしまった、例えば、貨幣の利益などを守るために起こす戦争などという行為は、もしくはそこに繋がるようなことは、無くしていきたいと常々思っているのです。おそらく、戦争という行為は、自然の力による破壊とは違い、人間自身が作り出した破壊であるいじょうは、人間による働きかけにより無くすことができるはずだと信じています。貨幣の獲得や保持を目的として、嘘の大義を掲げつつ、人のイノチも奪い、自然も破壊し、全てのものの存在の根本として大事な生命一般の根拠をも断絶させるような行為に、自身が加担したくはないし、多くの人々、特に子どもや若者たちには、加担させたくないと思うわけです。大きなお世話なのかもしれませんが…。
 逆に言えば、自分のある考えや行動が、イノチを奪うことに手を貸しているのを知らないのだとしたら、それは無知だったとは言え、人間の驕り以外の何ものでもないと思うのです。

 しかし一方で、最近はそんな僕の想いとは裏腹に、近代以降の人間世界における戦争のような事象は、勝つとか負けるとかは関係なく、定期的に行き詰まる経済的発展を解消するためのリセット機能として、システムに織り込まれている(プログラム)ものなのではないかと思ってしまいます。つまり、発展を第一と考えた場合、戦争という機能は不可避なもので、それが前提とすれば、その他のサブシステムは、その機能の作動正当化のために準備され使われるようになると言うわけです。そうした場合、戦争などというプログラムを正当的に作動させるには、上述したような人間の本性としての例えば、イノチを剥奪したくないというような内発的な情動は、やっかいなものになることが予想されます。特に、呵責の念のもととなるような意識は意図的に隠蔽させることになるでしょう。簡単に言えば、「自分たちが生きていくためにはしょうがない」と、正当化の意識を上塗りし続けることになり、その装置の1つが、教育だったりすると思うのです。

 ゆえに、とりあえず僕の活動フィールドについて言えば、鉄人28号のリモコンではありませんが、誰がどういう考えに基づいて、教育というシステムを稼働させるのか、相当に大事なことになるわけで、どうにかして取り戻す、もしくは、さらに上書きするプログラムを既成のシステムの中に埋め込むか、そんな闘いを日々しているつもりなのですけれど…。人々の貨幣への欲望を原動力として、自動的に稼働し、サブプログラムを含め、再増構築するようにプログラミングされている既存のシステムは巨大でかつ巧妙であると、言わざるを得ません。まぁ、僕の場合は、同じ欲望でも「学びの欲望」を原動力としているので、簡単には止まらないですけどね。(^_^)v

nice!(0)  コメント(0) 

不可能なもの

bank2017.jpg

 僕の活動フィールド1つである教育の分野において、僕が注目し続けていることが、「教育不可能性」です。教育というゲームに参加するためのコードが、「教育可能性」であることは、多くの人が認め理解するところだと思います。すなわち、教育をすれば、立派な人間になれるはずであるということです。さしずめ資本主義社会的な視点から言えば、たくさんのお金が儲けられる人になるということです。そうした教育の世界において、僕ははなから、「教育不可能性」に目が奪われる人でした。「教育不可能性」とは、人は教育できない、そもそも持っている素晴らしい資質があるはずだというもので、僕が考える教育とは、そうしたその人ならではの持ち味や才能が発揮できていないのだとしたら、それを阻害しているものを取り除き、そして引き出すものです。
 教育というシステムが、歴史的な概念、すなわち人間が作り出したものであるいじょう、システムの中にある不可能性に注目をすることはとても重要なことです。ゲーデルの不完全性定理を持ち出すまでもなく、パーフェクトに機能しているように見えるシステムであればあるほど、そのシステムは不完全な部分を必ず含んでいることになります。こうした傾向は、何も教育というシステムだけではありません。民主主義というシステムであれ、宇宙というシステムであれ同様です。

 さて、こうしたシステムの中に含まれる不完全性であるとか、不確定性などに注目をして、そうした事象の存在を顕かにしていくことにはどういった意味があるのでしょうか?
 1つのシステムといいますか制度のようなものが完成をし、一度動き出せば、そのシステム内においては、単一的なコード(規則)に則り秩序が構築されていきます。言い方を換えれば、1つの価値観を前提として階層的な秩序が作られていくことになります。「教育可能性」で言えば、貨幣を獲得できる能力を多く身につけた者ほど、その階層の上位を占めることになります。そうした中で、あえてそのシステムが持つであろう矛盾している部分、すなわち不完全な部分を指摘するということは、そのシステム内において自明だと思われている価値観などが、決して全てに適用されるものではないということを証明することになるわけです。意味的には、180度違うものも存在しうることの証明にもなるわけです。そのことは、今まで築いてきた階層秩序的な価値観を転倒させるものとなるのです。 
 例えば、学校というシステムが、必ず通うものであるというコードによって運営されているとします。なので、ふつうは休まず通ったり、遠くからでも通ってきたりする姿勢というか熱意が奨励され賞賛されます。そこに、不登校をする者が現れたとします。すると、学校とは必ず通うものであるという前提的コードが崩れます。さらに、積極的に登校しないという意思表示は、そもそもの学校や教育の意味や目的、そして学ぶことの本質などを問わざるを得ない状況を作りだすことになります。つまり、価値観の転換、もしくは、拡張を促すことになるわけです。こうした行為が、今までにあった社会観や世界観の変革の契機になりうることを意味しているのです。

 このような行為のことを、デリダは脱構築と呼びました。逆に言えば、あるシステムや構造の中に、矛盾を孕む不完全や不確定な部分があることが見つけられるのであえば、そのシステムや構造は脱構築可能であるということになります。すなわち、脱構築的な行為をすることによって、そのシステムや構造の変革を促すことが可能であるということになります。

 今、僕たちの国では、様々なシステムにおいてそのほころびが目立つようになってきました。その事実を曝き続けることは、まさにそのシステムを変革させるための脱構築的行為となるのですが…。一方で、そうしたシステムを確立したことによって利益を獲得している者たちは、なんとしてでも、自分たちの利潤を生みだすそうしたシステムの維持延命に力を注ぐことになります。多くの場合はむしろそれがふつうですが、もし、政権側がそうした利益の恩恵を受けている者たちの代表や自身たちで構成されている場合は、当然のように不完全性を曝く者たちを排除し、さらには彼らを再コード化し回収(再領土化)するための政治力を強化することになるでしょう。

 今週、ちょうど若者たちとの対話の中で、少子化対策の話しが出ました。歴史が証明している事実ではありますが、未来が明るく、将来に夢が持て安心安全に暮らせることが保障されていれば自然と子どもの数は増え、人口も増えます。今、まさにそうではないということは、国民の多くが未来に対して大きな不安を持っているということになります。こうした事象もある意味では、社会システムの中にある不完全性の顕在化であり、不安があることを曝き続けるということは、社会の価値観の変換を促すことに繋がると思われます。小さいことかもしれませんが、声を上げ続けることの大切さを思い続ける日々です。不可能性・不完全性・不確実性に気づくのは、いつの世も少数派なので…。

nice!(0)  コメント(0) 

流れを変える

hayashi2017.jpg

 先日のブログで、日本で起きている「イジメ」の構造について少し話をしました。「イジメ」という事象だけではなく、現代社会のいろいろな所で発生している事象は、一見個人の意識によって引き起こされているかのように見えることが多いのですが、実際は、その多くが、社会のシステムによる影響によって引き起こされていると言えます。したがって、そうした事象に対して、個人の力によって対処するには、やはり限界があります。
 既に稼働しているシステムにおいて、そうした特に、人間にとって不利益なことが発生しないよう制御するために、そのシステムの利用年数の長い人たち、例えば、日本の先輩格であろう先進諸国と言われる欧米の国々では、個人の力では止めることができないシステムによる抑圧傾向に対しては、同様のシステム(法の力)によって制御するようにできています。ゆえに、近代立憲主義や三権分立の原則は近代国家にとっては重要事項となるのです。ですから、本来であれば、システムの暴走を防ぐための対抗システムを考慮すべきであったとしても、決して、為政者側の権力強化を促すようなシステムの構築を国民側は安易には許してはいけないのですが…。

 そうした近代以降、日本をはじめとした多くの国が採用したシステムの1つが資本主義というシステムです。このシステム発展のためのポイントは、今までに何度か紹介しましたように、「新市場の開拓」と「イノベーション」でした。そして、それらを実現させる原動力となるものが、人々の「欲望」、特に、「貨幣への欲望」でした。日本をはじめとする資本主義というシステムを採用した国々は、そうした発展のための目標を達成すべく無批判的にと言いますか、無反省的に言いますか、ある意味で、一方的と言いますか、自動的にとでも言いましょうか、とにかく、貪欲に突き進んできました。
 発展のためのこの両輪は、競争し合う強力なライバルのような関係でもあります。どちらにしても、地球というような時空的には有限な場所であるかぎりでは、拡張は一巡というか、行き渡ってしまえば、今度は、否応なしに細分化への道を進むことになるわけです。とにかく、細かくすることで、市場などを増やすのです。電話などがいい例です。その昔は、一家に1台だった電話が、今や携帯・スマホということで1人に1台となったわけで、4人家族が全員持っていれば、仮定的には市場は4倍に増え、それを実現させたのが技術的なイノベーションとなるのです。第二次世界大戦後、世界にまれに見る急速な消費文化社会化を達成した日本は、そうした意味では、まさに、世界に先ゆく細分化(個体化)社会となったのです。

 さてさて、そういった個体化社会が引き起こす現象は、何も経済発展的な現象だけではありません。同様に、人々の精神も細分化させていくことになるのです。簡単に言えば、分裂化ということです。否応なしに、人々の心は分裂していくことになるのです。「精神の疎外化」が起きるということです。ドゥルーズとガタリは以下のように述べています。

「資本主義は、脱領土化の運動と切り離せないものであるが、この運動を作為的人工的な再領土化によって払いのける。資本主義は、大地的そして専制君主的、神話的そして悲劇的表象の廃墟の上に建設されるが、またこれらの諸表象を資本のイメージという資格で、自分に役立つように、別の形態で再建するのである。マルクスは、次のようにすべてを要約している。主観的抽象的本質が資本主義によって発見されるとしても、それは新たに鎖につながれ疎外される。」(ドゥルーズ=ガタリ、宇野邦一訳『アンチ・オイディプス 下 資本主義と分裂症』河出書房新社、164頁)

 と、そうならざるを得ないので、精神の分裂化などを防ぐためにも、芸術だとか休息が必要なのですが、欧米にあるようなそうした文化までは、急速模倣の日本には根付かなかったということでしょうか…。また、一方で、細分化による社会や人々の精神の分裂化ということに対して、それもある意味では、資本主義というシステムを採用しているいじょうは、過去において繰り返し機能してきたことなのですが、細分化の次に来る動きが全体化とか群体化です。つまり、何かを契機として、細かくなってしまったものをリセットした上で再統合し、プレーンというか、デフォルトの状態に戻すという動きです。この流れは、近代資本主義というシステムにおいては、かなりオートマチックで、上述した二氏風に言えば、「脱領土化-再領土化」という表現になるかもしれません。

「部分対象としての欲望機械は、二つの全体化作用を蒙るのだ。そのひとつは、出発点の集合において不在や欠如として働く象徴的シニフィアンのもとで、社会体が欲望機械に構造的統一を与えるときの全体化である。もうひとつは、到達点の集合に欠如を分配し、『空胞化する』想像界のシニフィエによって、家族が欲望機械に人称的統一を強制するときの全体化である。」(ドゥルーズ=ガタリ、宇野邦一訳『アンチ・オイディプス 下 資本主義と分裂症』河出書房新社、173頁)

 当システムにおいては、何もしなければ自動的にこうした流れを繰り返すということで、以前から話している〈バブル-恐慌-戦争〉という流れも、このような機能の1つの実際であると言えるでしょう。どちらにしても、戦後の日本は、発展という言葉のもと細分化(分裂化)が急速に進み、かつ、そうしたことで発生するであろう弊害に対する備えの意識も希薄なままに現在に至っていると言えると思います。その証拠の1つが、「イジメ」のような現象となるのです。こんな視点から、共謀罪のことなどを見ると、上述したような流れ再現のための準備意識が、もう既に超自我化してしまっているがゆえに、当事者たちは、真の意味など知らぬままに、目の前の課題に対する有効な対処的方法であると思い込み、ことの本質に対して無自覚的、かつ自動的に準備を進めていってしまってるように見えてしまいます。再領土化(再回収)されないで、こうした動きに対して歯止めをかけるための様々な活動をしてきました…。まだまだ、力不足ということです。(>_<)

居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』
期日が少なくなってきました。よろしくお願いします。<(_ _)>

nice!(0)  コメント(0) 

再び、「イジメ」を考える

clover2017.jpg

 ここ2週間ほど、若者たちと「イジメ」のことや、「不登校」のことについて対話をしてきました。例えば、みんなの「イジメ」についての話しや主張を聴くと、いつもさかなクンさんの話を思いだします。彼は自分が中学生だった頃の体験を通じ、魚の世界のたとえ話を紹介します。

 メジナという魚を例にして、「メジナは、海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じ込めると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。」(朝日新聞 2006年12月2日)

 さかなクンさんの話は、たいへん示唆に富む話だと思います。イジメの話、特に、学校などという場において発生する「イジメ」という現象に対して、その解決というか対策として、多くの場合は、発生する事前であれ、事後であれ、いわば対処方法的な視点を中心としてイジメ対策なるものが語られます。確かに、緊急避難的な意味で、既に発生をしてしまっていることに対して速やかに対処を施すことは重要です。少し厳しい言い方になるかもしれませんが、実際、現在の日本の学校などで起きている「イジメ」という行為の多くが、犯罪的なものであることは明らかで、もしこれが欧米で起きるのであれば、法的処罰の対象となってもおかしくないと思われます。したがって、昔から僕が主張しているように、法的暴力には、法的暴力で対抗するしかないということです。

 このようにして、「イジメ」という現象に対して、その原動力となってしまう暴力には2つの種類があり、上で書いた法的暴力に対して、もう1つの暴力である彼らが人として持つであろう純粋(本性)な暴力についての対処方法については話しが長くなるので、ここでは喋りません。関心のある方は、僕の本でも読んでください。で、話を戻して、さかなクンさんの話を読んだとき、僕は、最初は、彼が言うところの水槽が学校なのかと思ったのですが…。最近の日本の状況、各地で起きている様々な社会事象(イジメ的な)を見るかぎりでは、どうやら、日本社会全体が水槽だったんだと気づかされました。考え方としては、社会が学校化したのか、それとも学校が社会化したのか…、そもそも、学校という場所がそうした役割を担わされているのか…。

 少なからず、こうした視点で、今一度、学校という場所で起きている「イジメ」という現象を見直すと、はっきりと言えることは2つあります。1つは、日本で発生している「イジメ」的な現象は、学校(構造的に、結果がより強力に吹き出す先端かもしれない。)を含め、社会から決して無くなることはない。言い換えれば、必ず生みだされ続ける。そして、もう1つは、既に、個人の責任とか個人の力では、解決しようのない事象であるということです。

 だとすれば、こうした事象を否応なく生みだし続ける社会の仕組みについて、しっかりと知る必要が出てくるわけのなのですが、ゆえに、僕などは、近現代資本主義の仕組みやら構造に関心が向き、マルクスなどが言う資本主義の、特に、人間の精神に与える影響について視線が注がれることになるわけなのです。そうした欧米などの思想や哲学を知れば知るほど分かることは、彼らは、発祥の地で長い歴史と経験があるだけに、こうした事態が社会に吹き出ることをその多くの者が予見しているし、それを防ぐために、対抗的な意味での法的暴力の強化(近代立憲主義)などをすすんで行っているわけなのですが…。未熟なというか、本来、価値観の違かった日本では、人々のそうした意識が弱く、というか、本当は、欧米的近代国家を模倣するのであれば、そこまで教育に織り込むべきだったと思うのですが…、先に、貨幣獲得第一主義となってしまったわけで…。結果として、社会の仕組みの結果、引き起こされている多くの問題事象も、個人の力や人間の情的(これも実際は、純粋な暴力の1つ)な力を持ってして、乗り越えさせようとしてしまっているわけです。

 ということで、ほんとうであれば、社会の仕組みや人々の価値観を変えないかぎり、「イジメ」のような現象はなくならないのです。でも、たぶん今の日本でそうした変革が直ぐに起きるかと言えば、それは期待薄です(教育の成果…)。あーぁ、なんかシニカルな方向にきてしまった…。これ以上続けているとどつぼにはまるので、いつものように強引にまとめて、でともかく、「イジメ」のような事態に対して、法的暴力で対抗する以外にはどうしたらよいのかと言えば、いじめっ子たちが追い込まれて、そうした行為を行っているのだとすれば、こちら側も同様の権利として、自分の生命の存在を脅かすような所から「逃げる」(昔、「逃散」という行為があったよ…。)という権利を行使してほしいと思うのです。当然、学ぶ権利の保障は、違う形できちんとしてもらったうえで…。でもそうか、やはり今の日本は、逃がさない社会なのかもね…、監視社会強化。(^^;)

「不登校」についての話は、また次回…。

※ 純粋な暴力は、生きるため(生命維持)に行使せざるを得ない暴力。そうした視点から見たら、人間がある状況に追い込まれて自己防衛のために本能的に行使するのだとすれば、生物機能的には正常に機能していると見られなくはない。

居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』<(_ _)>

nice!(0)  コメント(0) 

僕はいつでも片想い

komainu2017.jpg

 僕はいつでも片想い…。

  私その日から あなたのとりこ 口には出せないどうして伝えよう 
  名前も知らない あなたへの One-sided Love~♪

 竹内まりやさんじゃないけれど、いつもこんな感じ…。
 僕の片想いは、なにも人だけじゃない。場所にも、モノにもコトにも気がつくといつも片想い…。片想いだからそうなるのか、それともそう想う傾向が強いから片想いとなってしまうのか…。そう想う傾向とは、若者たちには、ディアローグ的な対話を大切にしろと言っているのに、自身は、モノローグ的な対話が中心となる傾向が強いのです。本人は、よかれというか、人やモノやコトが崩壊するというか、降りかかるであろう危機を回避するためにはこうしなればいけないと、想うがゆえに考えるのだけれど…。それが、そうした傾向が強いだけに、自身とのモノローグの結果(内省的)であるだけに、それも深く濃く内省的な対話を重ねた結果、導き出された結論であるがゆえに、強く独我的なものとなってしまうのです。言い換えれば、独善的なものとなってしまうわけです。

 だから、そうした相手に対して、こんなに想っているのに、何も応えてくれないと勝手に思い、がっくりくることが多いわけです。でも、これは、僕が本性として持つものなのかもしれません。なので、こうした傾向はしょうがないとあきらめるようにしている今日この頃ではあるのですけれど…。

 まぁ、そう考えれば僕の片想い症候群はどうにか片がつくと言いますか、まさに抑制の効いた理性的な生き方となる訳です。しかし、ことはそうは簡単ではありません。やはり、僕はあるとき気づいてしまったんです。デカルトさんのように…。「我れ、想う故に我れあり」と…。これは、僕流の解釈ですけれど、デカルトさんは、そう考えている自身の想い自体が自身の本性的な想いなのかと疑ったわけで、自身が主体的に考えていると思っていた意識そのものが、既に他の何かによってすり込まれた意識なのではないかと疑えと言ったのです。

 つまり、僕が気づいたことは、どうやら想いというか、意識と考えられていることには、2つあるということ。1つは、ある後天的な外的作用によってすり込まれた、超自我化されてしまっているような、主体的な意識であると思い込まされてしまっているもの。そして、もう1つは真にというか、自然(本性)として涌き立ってくるものとしての意識というか想い。哲学的に言ったら、アプリオリな意識とでも言いましょうか…。そして問題は、僕の想いはどちらの意識から来るものなのかということなのです。
 ここからは、想像というか直観的なものです。自身が歳を取った結果、片想いの想いの結末を実際のシーンとして見る機会が多くなってきたのです。昔の直観は非科学的で論理的な説明がうまくできなかったのですが、時間をかけたことで帰納的に理解できるようになってきました。結論として、どうやら僕の片想いの想いは、本性的に未来を観える(捉える)がゆえに、危機回避機能として稼働しているぽいのです。なんだか、都市伝説のような話になってきました。だからと言って、僕の片想いは成就することはなく、多くのコト・モノは僕の想いとは違う方向へと向かうのです。あたかも、危機を迎入れるがごとく…。

 ここまで書いていて気づきました。僕の片想い症候群、自分ではディープなモノローグと考えていたけれど、これって究極の非対称性なんじゃないかと。つまり、究極なディアローグ的対話と言えるのじゃないかと…。そして、簡単には成就しないのですから、どこまでいっても両者の差異が延長されていく…。ありゃりゃ、差異の差延だ…。なんだか、自分の存在そのものが脱構築的。片想いをし続けることが代補の運動的。僕にとっての片想い症候群は、これが生きる原動力の1つになっているぽいです。世界や社会が、一層の分裂傾向を強める中、こうした意識が、僕の意識統合のための自己防衛機能であると思われます。と、自身の在り樣を正統化して終わります。んーっ、モノローグぽいな…。(>_<)

締め切りがせまってきました。
こちらも引き続き、よろしくお願いいたします。
居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』
STUDIOmain-γ.jpg

nice!(0)  コメント(0) 

大切なもの

sasukehokora.jpg

皆さん、お元気でしょうか?
僕は、元気です。

桜の季節も気がつくとアッという間に過ぎ、
今は、新緑の季節で裏の山々は、様々な緑で覆われています。

皆様ももうご存じかとは思いますが、21世紀の日本は、既に十分に豊かになり、一家に一台であった電話も、今では一人一人に一台となりました。また、テレビのようなモノも、何でもできるパソコンなる機械に変わりまして、ちょちょいのちょいという感じで、家にいながら世界のモノを手に入れることができます。本当に便利な世の中になりました。お金さえあれば、何でもできます。

世界の価値は、万国共通のお金というモノを基準として、いかにたくさんのお金を獲得することができるかによって決まります。

そのものに、どんなに想いが込められていようが、どんなに世界の真実が埋め込まれていようが、お金を生みださないかぎり無価値です…。少し前までは、所によっては、お金には換えることのできない大切な価値を優先する人々も存在していましたが、豊かになった今の日本では、そんな少数派の人々は、まったくいなくなってしまいました。

本当の価値も意味も分からない、ただただお金の亡者となった人々…。
おっと愚痴が過ぎました。豊かな世界は、パラダイスです。
お金さえあれば、何でもできます。
お金、第一、大万歳!

雨の多い季節が近づいてまいりました。どうぞ自愛ください。
僕は、しばらくの間、内省の生活へと隠ることにいたします。
それでは、皆さん、さようなら。


 という感じで、誰と言うわけではありませんが、急に手紙を書きたくなりました。鎌倉代書屋さん(僕は鎌倉代教屋ですが…)ドラマに影響を受けたというところが、真相ではあります…。でも、このところ、確かに、「価値」ということをよく考えます。もう長らく続く資本主義の社会では、その昔から、貨幣への欲望を満たすものが大いに価値があるとされ、何かを表現したり世の中に働きかけるときも、まずは貨幣への変換能力ならびにそれに付随するコスト計算がその動機として優先されます。世界の歴史を眺めると、そうした視点が優先されたがゆえに、人類にとって不利益な出来事を引き出すことになった事例を多く見ることができます。

 それでも、世界には必ず貨幣的な価値ではない本当の価値を見いだすことができる人がいて、そんな人たちの自己犠牲によって、人類にとって大切な財産となるものが残されてきました。また、こうした真に価値があると思われるものの多くが、時間的な視点で見たとき、今日明日に直ぐにその価値を発揮するのではなく、何年かの長い時間をかけてその価値の正統性が証明されることが多いので、未来を見通してものを考えることができる人の存在も欠かせませんでした。

 と考え我が国の現況を振り返ると、何だかとても厳しく寂しくなります。今や、手紙にも書いたように、おそらくそれは、政策や教育の成果だとは思いますが、そんな人たちはまったくいなくなり、多くの人々は、明日明後日の生きるための貨幣を獲得するために悪戦苦闘を強いられています。結果として、貨幣的な価値はないが、犠牲を孕みつつも真に価値があるものを残そうなどいう奇特な人は我が国には、もはや皆無となったわけです。
 そもそも、真によいものにいわゆる貨幣中心主義的な付加価値を織り込もうすること自体がナンセンスだと思うのですが…。資本主義的な価値観の押しつけが行きすぎると、社会も人の精神もダメになることは明白です。したがって、健全な批判精神の1つであろう貨幣的な価値のないものにこそ価値があることを見出し、なんとか形にし残していこうとする心意気を意識的に守っていくことが大事だと、僕なんかは切に思うのです。そんな視点から考えると、やはり教育のシステムなどを前提から変革する必要があると思うのですが、教員養成の仕組み等も含めこうしたシステムを企画し運用する人自体が前述したような意識を持つ者たちのみとなっているというか、全てが自己増殖型の巨大な再生産システムとして稼働し続けているだけに、将来展望への厳しさは否定できないと思います。
 一方では、資本主義の原動力の1つであるイノベーションを担う人材等を嘱望しているのに、それらの育成・機会を自ら潰した上で、今まで通りで発展のためには戦争以外でのリセッション回復方法を提案していないところからも、まさに進歩のない繰り返しの世界を望んでいるのではないのかとさえ思えてきます。世の中の流れを換えることの出来ない無力な自分に、歯ぎしりな日々です。

 ことがある度に、そうしたものや人を拾い上げる力を持ち合わせていない僕は…。と嘆きながら、宝くじを買うのでした…。神様、僕にほんの少しでよいので、変革の力を…!結局、金なのか…、言語ゲーム…、我人生。 (>_<)

nice!(0)  コメント(0) 

ナショナルなもの

hikoukigumo-1.jpg

 もう、だいぶ語りつくされたテーマではありますが…。最近の日本も、まさに、絵に書いたような節目的な社会状況を呈してきました…。グローバリゼーションとナショナリズムについては、いろいろな所で何度か話しているので重複してしまうのですが、繰り返し話し続けた方がいいような気がしているので、もう一度、少し書いておくことにします。

 まずは、資本主義というシステムの性格上、否応なしに繰り返されるグローバリゼーションとは、何であったのかということの再確認です。グローバル化なるものが、国境を越えて「人」「物」「お金」が動くことなのだとしたら、人類は既に何度か経験をしてきています。特に、近代資本主義の時代に入ってからは、その発展の原動力が「新市場開拓」と「イノベーション」であるいじょうは、その発展の原理から、グローバル化は避けては通れない道となっています。そうした視点から見たとき、今のところ世界は同じ歴史を繰り返していると言っていいでしょう。
 
 そしてより一層の資本主義的な発展を目論む世界、特に先進諸国は、否応なしにグローバル化を推し進めることになります。グローバル化を推し進めると、当然のように国内において、国内産業の衰退や失業等を引き起こします。所得の格差なども広がり、国民や業界団体からの反発も強まることでしょう。また、グローバル化が進めば、国境を飛び越えた市場化などが進むわけですから、市場の範囲を縛っていた国家という枠組みが邪魔になってきます。上述したことをまとめれば、グローバル化が進むと、民主主義国家内における少数派の、特に政治的な意見を無視せざるを得なくなるということ。言い換えれば、議会制民主主義を軽視する傾向が強まるということと、国家の枠組みを弱体化せざるを得なくなる、簡単に言えば、国家主権を弱めざるを得なくなるということです。

 そこで、90年代後半以降の日本の状況を具体的に見てみましょう。当然、より一層の資本主義的経済発展を目指す日本も、新自由主義的な政策をバックボーンとして、グローバル化を推し進めてきました。結果として、高度経済成長期をとうに終え曲がり角を曲がりきったところでの強力な資本主義政策の推進ですから、当然のように様々な分野において、そのひずみが顕在化していくことになります。例えば、地方における地域共同体の崩壊、すなわち、地域における自治権や自己決定権の剥奪、雇用の流動化、格差の拡大等です。強力な資本主義化が進めば進むほど、その性格上、様々な分野における社会構造上のいわば分裂がここ日本でも否応なしに進んでいます。こうした社会構造的な分裂傾向は、自殺者数の高止まりや差別社会化等、国民の精神をも分裂させつつあります。
 こうした避けることのできない状況は、政治の世界においても前述したような、議会制民主主義(近代立憲主義等)の軽視化や国家主権・国民主権の弱体化による基本的人権等の後退化などを引き起こしています。

 しかしながら、権力者側は、自分たちの持つ既得権益等を保持し続けるためには社会や国民精神の分裂化が進もうがおかまいなく、経済的発展を一層推し進めなくてはなりません。したがって、実際には分裂化の先延ばしでしかないとは思いますが、国家や国民精神の再統合のための策を講じることになります。発展による経済的利益が潤沢のときであれば、国家による所得の再分配等の施策を実行することで統合を図るところなのですが、分配するお金がない今は、お金をかけずに国家などの分裂を先延ばしするしか、方法がない状況になっているわけです。

 その方法の1つがナショナリズムなのです。本来のナショナリズムとは郷土愛のような、生まれ故郷などに対する純朴な愛情であったものが、国家再統合のためのツールの1つとして、まさに政治利用される傾向を強めているのです。政治的な意味でのナショナリズムは、強まるであろう保護主義的な傾向ともあいまって、今後に現れるであろう社会状況によっては、最終的に為政者たちが選択するかもしれない政策の正当化に利用されるというか、既にされてきました。その歴史的選択とは、戦争でリセットされることによる再市場化やイノベーションの再強化です。

 ということで、今だからこそナショナルなものに対しては、十分な注意が必要な時代だと言えるでしょう。人類は、今度こそ貨幣的な発展だけを優先するのではなく、精神的・意識的な発展をも大事にする選択をしてもらいたいものです。

〈居場所型BookCafe   
『STUDIO鎌倉第四次空間』〉

STUDIOmain-γ.jpg  


nice!(0)  コメント(0) 

批判的精神

aoba2017-1.jpg


〈居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』〉
STUDIOmain-γ.jpg※重ね重ねで恐縮ですが、こちらのシェア・紹介もよろしくお願いいたします。<(_ _)>




 首相が改憲について、「機は熟した」と言ったそうですが…。
 先の選挙において、自民党の得票率は比例区において約36%で、得票数は約2,000万票です。日本の有権者数は、大体1億400万人ぐらいなので、有権者数全体から見たら20%ぐらいの人数比になるでしょうか…。人口全体から言えば、さらに小さくなって15%ぐらいになるでしょうか…。まぁ、単純に自民党支持の方々が全員憲法の改憲に賛成だとしても全国民の15%程度、他の人々を入れたとしても、現在、憲法を変えることに賛成の国民が、過半数、すなわち機が熟すほどの数になったとは考えづらいと思います。なので、首相が持つイメージと実際は、少々ズレがあると言ってよいと思います。で、僕が気になるのは、そこだけではなく、今、政治的には、国会における議員数において過半数以上を占める自民党の首相を含む皆さんが、それこそ国民全体の7分の1程度の支持を得られているからといって国民全体が、もしくは多数の者が賛成しているのだと単純には考えてほしくないな~、という点です。
 ここらへんのことをしっかりと理解していない場面が、最近の政治局面では多く見られます。 例えば、一昨年成立した安保法案などでも、成立後も説明をしていくと言ったり、米国の戦争に巻き込まれるようなことは絶対ないなどと言ったにもかかわらず、その後の説明審議は尽くされてはいないようですし、今年に入ってからは、米国の東アジア政策に引きずられる結果、米国の軍事作戦支援に自動的に参加をしています。今までであれば、憲法9条を盾として、米国の軍事作戦などの支援を単純に行うことは難しかったはずです。ましてや、米国と対峙している国は、その攻撃目標は在日米軍基地であるとはっきりと言っているいじょうは、日本の安全保障を考える上では、米国の軍事的な作戦に無条件で乗っかる前に、事前に日本としてやるべきことは、まだまだたくさんあると思うのは、僕だけでしょうか。
 安保法制のときも、日本の安全保障を考えその抑止力を強化するためには、法律を作らざるを得ないのだと主張していました。しかしながら、最近の現実を見ると、政府の言う安全保障は、戦争をやることが前提で、戦争を回避するための方策ではなく、戦争をすることを不可避とした上での安全保障であったり、軍事力頼みの抑止力であることが明白です。戦後の日本は、敗戦の反省に立ちそうした世界観を否定したことから始まったのではないでしょうか…。ある意味で、国会議員数の数だけを見て、自分たちの考えが十分に支持されているのだと考えるのだとしたら、いつか来た道の繰り返しになっているように見えてしまいます。いや、むしろ近代民主主義的なシステムは、その運用において謙虚な注意力を、特に、与党となるような政党がしっかりと持たないと、独裁性などが知らず知らすのうちに強まる傾向があると、中でも政治に関わる方々が十分に理解するべきではないかと思います。そして、それゆえの近代立憲主義であったはずなのですが…。

 しかし一方で、そうした政権に対する支持率が高止まっている状態を見るに、当事者となったときのことだとか、何年か先の変化についてだとか、起きている事象の全体を見渡したときの見え方の違いだとか、過去の歴史と照らし合わせたときだとか、もっと単純に言えば、前提性を疑うような意識や視点が、年を追うごとに社会全体として希薄になっているように感じます。この傾向の基底にある問題は、国民における想像力の低下にあるような気がしています。が、人間にとっての想像力は、生きていく上に必要不可欠な資質であるがゆえに、すべての人がそもそも持っているものだとも言えるので、正確に言えば、想像力を阻害するような要因が強化されていると言った方がよいかもしれません。そうした傾向が強まる原因として、資本主義というシステムが持つ構造的な問題が関わっているのは明白ですが、説明が長くなるので今回は深入りしません。ともかく、そうした傾向に対して意識的に抑制をかけないと、想像力は自然と低下してしまうということは知っておく必要があると思います。ゆえに、教育の問題と密接な関係があるのですが、それも別の機会に…。

 長くなってしまったので、少々無理矢理のまとめに…。今回指摘をしたように、最近は、意図的かどうかは別として、実際、大きな権力を有しているものが、様々な手段を利用し自分たちに有利な空気感を社会に作り、多くの人々の想像力の低下をよいことに、自分たち中心の世界の押しつけ傾向を強めているように感じます。その風潮にたいして、僕たち市民はどうすればよいのでしょうか…。それは、180度否定の反的な意識を持つまでもなく、せめて批判的な意識を土台として、様々な社会的事象を考えてみるという心構えが、特に、今の日本には必要だと思います。ゆえに、ほんの少しでよいので、歴史や哲学や思想などを学ぶ試みを実践しましょう。(^^)/

nice!(0)  コメント(0) 

空気感

yaesakura2017.jpg

 最近の報道などで、「教育勅語」であるとか、「道徳」とかという教育関連の単語を目にしたとき、僕は直ぐに教育基本法のことを思い起こしました。教育基本法は、日本国憲法に則り、戦後日本の教育に関する根本的で基本的なことを定めた重要な法律でした。その教育基本法が2006年の第1次安倍政権のときに変えられたのです。それから、約10年が経ちましたが、そのときに旧教育基本法から変えられた部分をいくつか振り返ってみました。丁寧に全部の箇所を比較したいところではありますが、文量も多くなってしまうので、今回は、前文を中心に再確認したいと思います。

 前文で書き換えられ、加えられた文書において目につく言葉は、「公共」・「伝統」という言葉です。旧前文と差し替えられた前文の全体の印象は、旧前文においては、戦前の教育が、国家のための国民を作るのが第一目的であったことを深く反省し、個人における人格の完成を目標とすることを明確にしたものであったのに比べ、だいぶ再び、個人から国家中心主義的なものへと回帰しているように感じます。そうした印象を与えるキーワードが、前述した「公共」とか「伝統」という言葉です。
 一見すると、これらの言葉に差し替えられたからと言って問題はなさそうに思うかもしれません。しかし、ここで注意が必要なことは、例えば、「公共」という言葉の意味が、いわゆる近代民主主義的な定義で使われているのであればまだしも、ときの政権、すなわちそれを引き継いでいる現在の政権の性格から考えて、意識的か無意識的にかは判断できませんが、その後、明らかにされた彼らの憲法草案からも分かるように、近代立憲主義などを理解し、当然としての前提である基本的人権などの保障を担保した上での「公共」という言葉の使い方ではなさそうな点です。ここでの「公共」が意味するものは、国民の国家ではなく、国家の国民であるところの「公共」です。こうした近代民主主義の原則を無視した公共観では、むしろ戦前回帰であると言わざるを得ません。また、「伝統」と言ったときも、単なる情緒的に日本的であると思われてきた、例えば、神国日本のような戦前からある単なる本質主義的なものへの回帰であると予想されてしまいます。しかしながら現実には、そうした考え方を差し込まれた新教育基本法が施行されて10年が経ったのです

 まず、ここで僕が驚いたというか、気づかされたことは、社会の原則などを決める重要な法などが、そうした原則の変更等を意図し、ときの政権などに変えられると、静かにかつ確実に社会全体に浸透し、国民があまり意識しないうちに前提が変えられ、知らないうちに変えられた前提が当たり前となってしまう点です。昨今の教育に関するトピックは、このような操作の成果であり、そんな国家が作り出した空気感を、まさに国民の側が忖度した結果であるような気がします。どちらにしても、先行した誰かが特殊な考え方として注目したのではなく、既に先行している時の政府の政策的意図の成果の1つとして顕在化したものであったのでしょう。こうした視点から見れば、大阪の某学校と政府との関係性がよく分かります。そして、その時は、たいして影響はないだろうと考えられることも、国家の在り樣などの原則に関わるような法の変更は、時を経て静かに確実に社会の原則を変えるということ。すなわち、悪用する政権の登場の場合も含め、後に悪法に変えてしまったことを悔やんでも遅いということで、国の基本法などが変更されるときは十分に注意が必要だということです。残念なことに、既に変わってしまったものも多くありますが…。

 前述したような出来事を少し離れて見ると、次のようなことも浮かび上がります。それは、前述したような「公共」だとか「伝統」という言葉を国の原則法に取り入れざるを得なくなっているのではないかとする見方です。言い方を換えると、資本主義などという社会システムを採用しているいじょうは、回帰とかというロマン的なものではなく、構造的に同様のルーティンを繰り返すということです。厳しい言い方になりますが、システムを変更しないかぎり、選択の余地のないルーティンの繰り返しであるということです。証拠に、国民の価値観において、「公共」だとか、「伝統」と言ったものをすり込まざるを得なくなった背景として、資本主義というシステムが構造的に持つ課題であろう社会の個体化やグローバル化に対処するためのものであることは明らかです。
 そして、特に国家のこうした在り樣は、何も新しいことではなく、先の戦争時と何も変わらない同様のプロセスの繰り返しの過程にあると言えるでしょう。このような流れがある意味で、近代国民国家の一般的な流れなのだとしたら、特に、日本は厳しいと言わざるを得ません。それは、経験した歴史を変えようとする意識が国家にも国民にも希薄だからです。中でも政府の無策というか無自覚ぶりは、日本のお家芸的なものです。本来であれば率先しなくてはいけない、国民・国家の意識の分裂を避けるように考慮した新しい市場の開拓であるとか、少なからず、多少保護主義的傾向には偏りますが国内市場や内需等の活性化だとか、イノベーションへの投資や人材の育成だとか…、そうしたことにはあまり力を入れることなく、従来というか旧来型の対処的政策である精神性を中心としたようなナショナリズムの再強化などでは、何か新しいことが起きようがありません。ましてや、戦争に加担ができるようになった今では、経済的発展の名のもと、何もしなければ自動的にいつか来た道です。おそらく、システム上、1つの集団や個人に大きな権力を長く持たせたりすると権力側が暴走することを失敗も含め経験をした人々は、権力側に対して近代立憲主義のような考えを確立し絶えず抑制的に振る舞おうとしたわけですが、残念なことに日本では、そうした考えは政府側にも国民側にも、未だ広くは定着していません。権力者側と一般国民との間にある非対称性についても、理解している人が少ないのが現状です。

 と、だんだんグダグダになってきました…。(>_<)
 ともかく、失敗を繰り返さないようにするためにも、たとえ微力であっても自分たちの責任において、変革のためのディアローグ的対話を絶やしてはいけないと肝に銘じつつ、代補の運動の場を開き続けたいとこころから思うのでした。重ね重ねのお願いで誠に恐縮ですが、変わらぬご支援/シェアをよろしくお願いいたします。

〈居場所型BookCafe
『STUDIO鎌倉第四次空間』〉
  STUDIOmain-γ.jpg

nice!(0)  コメント(0) 

居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』

STUDIOmain-a.jpg

 いつもお願いばかりで恐縮なのですが…。このまま引退でもいいかなと思っていましたところ、CAMPFIREさんに背中を押していただけたので、もう少しチャレンジしてみることにしました。以下、ご挨拶まで…。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私は、学びの支援の場としての居場所を34年間運営してきました。私自身が様々な学びを経験させてもらった30余年でした。たゆまぬ活動を通じ、今、さらなる地域における学び支援の1つの形が見えてきました。ディアローグ的対話を中心とした学びの場として、哲学・思想・沖縄関連の本を揃えた『居場所型のBookCafe』を開くことにしました。1つの希望を形にするため、参加者であると同時に支援者としてのお力添えをこころからお願いする次第です。多くの方にお声かけをよろしくお願いいたします。<(_ _)>

                         〈CAMPFIRE〉
STUDIOmain-γ.jpg



nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | -