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二重意識

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 最近、若者と部分部分ではありますが、ポール・ギルロイさんの『ブラック・アトランティック』の読み合わせをしています。この著作は、欧米で暮らすことを余儀なくされた黒人たちの文化・思想・歴史等を通じて、彼らの精神性を背景として近代性ならびに近代化の本質の理解を試みたものです。特に、これらの分析の重要な道具立ての1つとして、「音楽」が使われているところが、たいへん興味深い切り口となっています。

 僕自身は、既に昔に読んだことがある著書ではあったのですが、諸事情から再び読むというか、この著作を材料として対話をくり広げることになったのです。結果として、一人で読んだときには気づかなかったことが、次々と浮かび上がることになりました。ディアローグ的対話の効果は大きいなと改めて思ったのでした。そこで新たというか、再確認した部分なのですが、それは、二重意識という部分です。この二重意識とは、当著の中では当然、黒人における二重意識ということになるのですが、改めて読んで気づいたことは、日本人に重なる部分、そして僕自身に重なる部分の発見です。

 まずは日本人(日本とか日本人とかと表現するとき、その定義づけにいろいろと違和感を感じますが、一般的な意味で漠然と使います。)と重なる部分については、当著で言うところの近代化、言い換えれば欧米化ということになるかもしれません。そうだとすれば、日本における近代化(欧米化)とは、明治以降の話となるわけなのですが、そうした欧米化の波について、日本で暮らす人々は黒人たち同様に、欧米化に対する二重意識を持ったに違いありません。その二重意識とは、簡単に言えば、「恐怖」と「擁護」です。そして、その背景にある精神性は、前者はそんなものがあるのだとしたら、日本に住む人々が持つであろう日本人ならではの本性性の喪失であり、後者は、発展すること、特に資本主義的な発展を担保した科学性(理性)ということになります。
 黒人たちの場合は、否応なしに欧米社会を移動させられた結果の近代化であり、日本の場合は、近代化が向こうからやってきたという違いだったのですけれど、近代化の波に曝されたときの人々の反応は、多くの共通点があったように感じます。辛口の言い方になりますが、まさに物理的な移動は伴わないままに、精神がディアスポラ化したということになる気がします。その精神構造を単純に説明すると、日本人としてのアイデンティティの喪失に対する不安と同時に、そうした日本人としての本性性に対する誇りすらも商品の1つとして回収し貨幣の獲得に結びつけるような科学性に対する畏敬の念…。つまり、この両義性こそ、近代化の正体の1つであるということです。こうした構造を明らかにする切り口の1つとして、ギルロイさんは、黒人の音楽を取り上げたのです。こうした道具立てに芸術ならびに芸術活動を用いる意味を考えるには、例えば、ハイデガーの芸術論を参照する必要がありますが、今回は詳しくは触れません。一言だけ言えば、芸術活動とは、近代化/科学化などによって覆われてしまった作品が本来持つ存在としての本性性を顕在化する試みであるということです。

 そして自身の話に重ねれば、と言ってもここからの話を詳しく展開するとたいへんなことになるので、知りたい方はお気軽にお声をおかけください、機会がある時に説明します。何だか予告編みたいですが、僕の場合は、近代化/教育化などという視点も含みつつ、僕の二重意識の本質は、「スペック/本性性」と「理性/科学性」ということになり、この両義性をどのようにして統合し、その在り様を正統化すべきかという葛藤と恐怖の日々との闘いということになります。そして、こうした二重意識を超え現代を生き抜く術が学びであり、学び続けることが、代補の運動、すなわち脱構築であるということになり、さらに付け加えるとしたら、こうした二重意識(両義性)こそこれらの運動の原動力となっているのだと思われます。

 ということで、ほんのほんのさわりの話ではありましたが、若者との対話(学び)が、紛れてしまっていた僕の本道の意識を顕在化させるよいケース紹介となりました。蛇足ですが、こうした学びの実践は、当然、僕が持つスペック/本性性の意識をも活性化します。もう、お気づきの方もいらっしゃるかとは思います…。やはり、そこが僕の存在の意義なのかな~。と、また、揺らぐのでした。(^^)/

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嘘か真か

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 僕は、実際に現場に行き、そこに住み生活している人たちと対話をします。その数は、1人2人ではありません。累計で言えば、何十人、何百人となるでしょう。結果として、現場にいる人々の考えを知ると同時に、彼らの背景も知ることになります。さて、それが真実か否か…。確かに、僕に会う何百人の人が、全て同一のグループに所属をし、意図的に僕に嘘の情報を流したとすれば、僕は、簡単に騙されることになるでしょう…。もし、そうしたことを、一市民に対して、意図的に行おうとすれば、第一に莫大なコストがかかることが予想されます。さらに言えば、そうした嘘の情報を植え付けるほどの価値が僕にあるのだろうか?どう考えても、何十万の人に影響を及ぼせるほどの能力と可能性を僕は持ち合わせてはいません。したがって、現場に立つ僕をコストと時間をかけて騙すほどの価値はないはずと、僕は思いたい…。

 さて、話しは変わり、今、インターネット上などには、明らかに真実ではない情報が流れ、それを真実だと主張する人々が存在します。その多くの人が、可能な場合、せめて現場に行けばその真偽のほどは直ぐに分かるはずです。まぁ、実際には全ての人が現場に行けるわけではないので、せめてそうした場合には、映像等で流されている情報の判断には慎重であるべきです。
 しかしながら、一方でたとえ映像や音声が真実であったとしても、そうしたリソースを読み解き理解する力がなければどうしようもありません。先日もベタで流された会見映像を見たときその会見者の発言が、どの角度から見聞きしても僕にはAとしか理解できなかったことが、ネットの中では真反対のBという理解をする人々がいることを知りました。これはどうしたことなのでしょうか、確かに、同一の出来事でも見る角度によっては見え方が変わるので、1つの事象に対する様々な見方や考え方があってしかるべきですが…。
 ここで僕が思い浮かべる言葉は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」です。僕は、この言葉の意味を、「そう思っている自身の意識が、既に何者かによってすり込まれた意識ではないかと疑え」と言ったのではないかと理解しています。

 例えば、前にも言ったように、日米地位協定は明らかに日本の人々の主権を侵害しています。そうした場合、世界では、市民の中から主権回復運動が必ず起きます。それが、民主国家においてはふつうのことです。以前紹介したリテラシー運動なども、その最たるものです。ある国の価値観を、例えば、その国の経済的な意味での市場の拡大獲得を目的として文化や情報を、ネットワークに乗せ他の国へと流したとしたら、自分たちの文化を放棄することを引き替えとして、他の国の戦略的文化を受容するとしたら、それはある意味で、自分たちの主権的自立を失うことになります。したがって、そうした意図を理解した上で、ネット上で拡散するような文化的な情報などを理解する必要があるわけです。これが例に上げたリテラシー運動の問題意識の中心であり、まさに主権回復運動ならびに自己決定権を取り戻す運動の1つの姿です。
 そうした視点から見たとき、日本における本来のナショナルな主張などは、日米地位協定等の存在をきちんと認識した上で、侵害されている私たちの主権を取り戻そうという主張等を土台として、今、起きていることの真意を理解し批判すべきは批判をしていかなければならないと思うのですが、前提となる部分への言及は皆無のまま、表面的な部分だけに感情的な批判を加える様子には、愛国であるがゆえの主張であったとしても大きな違和感を感じざるを得ません。もし、ある権益者とか権力者が、意図的に市民の主権意識を隠蔽・脆弱化するように仕組んできたのだとしたら、まさにその成果が出ているのが現在の日本社会のような気がしてなりません。
 まぁ、話しが広がってしまったのですが、僕にとっては誰かが主張したり批判をするとき、その土台意識として日米地位協定のことや、国内に外国の軍隊が治外法権で駐屯していることなどをどう考えているか、その人の意見や視点の真正性を判断する材料として重要視しているわけです。こうした政治性を孕む話しは、自分たちの表現や主張や運動とは馴染まないとか、無縁だと思った人には、今一度、「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの言葉を贈りたいと思います。(^^)/

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評価するのは誰…

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 気がついたら、あっという間に前期の各授業も終了です。あとは、レポート読みと成績つけです。僕にとっての苦行は、なんと言っても成績つけです。一番難儀なことは、減点式に評価を決めることです。なので、僕は原則、加算式で評価を決めるようにしてます。簡単に言えば、できるようになったというか、新しく学びとってくれたことをきちんと評価するという視点です。あれもこれもできるようになったということで、ともかく、学習者自身がアピールというか表現できる機会を多く作り、達成できたことを積極的に評価するようにしています。

 確かに、評価では客観的な部分も必要かとは思いますが、基本はやはり自己評価だと思います。例えば、数学のいわゆる成績がよい人に、「あなたは何を学びましたか?」と尋ねたら、「2次方程式を解けるようになりました。」とか、「解の公式を覚えました。」などと答えるかもしれません。技術や知識を覚えることは、学んだことの一部かもしれませんが全部ではありませんし、ましてや、最も重要な点というわけでもありません。それも、誰かに与えられたものを暗記したとかというのだけでは、本来の学びとは言えないでしょう。こんな回答はあり得そうにはありませんが、理想としたら、「二次方程式の解き方の学習を通じて、こうした考えを引き出し、必要とした数学者たちの考え方を共有することができ、数学を学習することが、人々の暮らしにおける生きることの意味に繋がっているのを学ぶことができました。」。まぁ、あまりにも理想的過ぎますが…、こうした指摘には、学習する側だけではなく、教える側の問題、すなわち、数学を通じて何を教えるのかという、教える側の意識の問題も関係していることに気づかれたと思います。で、今回は評価の話なので、話を元に戻して、学びの本質は、いかに学習者自身が、十分に(イキイキと)学んだなという意識が持てたかにかかっています。
 となれば、学んだことに対する評価の中心は自己評価であることが自然です。ある条件を満たしたような1つの集団における相対的な評価は、その集団におけるある要素を中心とした位置であるとか、教える者の力量の差異を前提とする結果は、あくまでも参考的なものであって、学習者にとっての真の評価とはなり得ません。

 そこで最近の僕の授業では、授業の最終日に自己到達度テストを実施しています。テストという名称をつけるのは嫌なのですが、振り返りという意味も込め、とりあえずテストという名称をつけてはいます。内容は、今回の授業を通じて学習者自身が学びとったと思われることを様々な角度から再認識してもらうことと、全体として自身の学び度合いに評価(便宜上10段階評価)をつけてもらい、その理由も記載してもらうというものです。このテストの詳細はなかなか興味深いものになるのですが、紙面の関係上、1つだけ特徴を紹介しますと、僕とかがいい学びをしたな~、と思う学習者ほど、自己評価、例えば10段階評価の点が低く厳しい評価を自身に下すということです。この傾向は、なかなか興味深いでしょ…。なぜ、そうなるのか、僕なりの分析を書きだすと長くなるので、言えることを1つだけ、学ぶことの意味を理解している人ほど自己評価は厳しくなると言うことです。逆に言えば、まじめに勉強している人ほど、従来の評価基準が意識に染みこんでいるがゆえに、点数とかに出ない真の学びに興味を抱いたことを正当に評価できないということです。

 本来、生きることに直結している学びとは、充実し楽しいものであるはずなのに、点数などによる評価対象からはずされ続けてきた結果、本来の学びを自身で評価できなくなってきている…。ここにも日本の教育の課題とか問題が(自己決定権、主権等)潜んでいると思われるのですが、愚痴が過ぎるとよくないので、今日はここらへんまで…。では、また。

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主権在民

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 今週、うすぼんやりと考えていたことは、国民の主権についてです。ここで僕が想起している主権とは、「自分のことは自分で決めさせて」という意味で、言い換えれば、自己決定権ということになるでしょうか。昨今、世界の動向としては、グローバル化なるものが進んでいるので、各国とも国家的な主権は当然抑制されてきているわけです。それで、多くの先進諸国は、国民国家で民主制を採用しているので、国家的な主権とは、国民主権のことを意味します。したがって、グローバル化が進むことによって、国民主権が侵害されることになるのですが…。

 国民主権がないがしろにされるということは、自分のことを自分で決めることができない状態に陥ることを意味し、言い換えれば、自己決定権が剥奪されることを意味します。こうした状態に何年かにわたり国民が曝され続けると、個々の政治性とか思想性とは別としても、多くの国民は、時の為政者というかグローバル化を強固に推し進めようとする体制ならびに権力者に対して、何らかの形で異議を申し立てるようになります。20世紀の初頭に起きたグローバル化の結果、先鋭化し引き出されたものが全体主義であったことは記憶に新しいです。

 こうした視点から考えると、少し前であれば、イタリアのスローフード運動やカナダのリテラシー運動など、そして最近では、イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ現象、フランスでの極右勢力の台頭などもそうした動きの1つであると言えるでしょう。このようなグローバル化に対する国民の自己決定権回復運動的なものは、それがいわゆる右派的なものであれ、左派的なものであれ、 歴史の中では何度か繰り返されてきました。国民による抵抗が起きるという点において、近代以降の国民国家の特に民主国家における国民は、自分たちの主権が侵害されることに対して敏感であると言えます。

 そうした世界の状況にあって、僕が思ったのは日本のことでした。イギリスやアメリカなどと同様に日本でも、1990年代後半より新自由主義政策を筆頭にして否応なしのグローバル化が推し進められてきました。そうした政策を支えたキーワードが「多様化」であったり、「選択の自由」であったりしました。そして、実行した結果、引き起こされた失敗については、「自己責任」という逃げ言葉が用意されました。戦後の強力な経済発展政策によって、既に国内における国民の自己決定権は脆弱なものになりつつあったところに、さらなるグローバル化の波が押し寄せたのです。国民の自己決定権の後退、すなわち主権の侵害は覆い隠せないものとなってきました。ここまで主権を侵害されたとなれば、本来なら左右の思想性などには関係なく、自己決定権回復運動が国内の各地で起き、1つの政治的な声となってもおかしくないはずです。しかし、日本ではそうした主張を前面にした運動は未だ大きな運動とはなっていません。

 事例としては、少し遠回しな話となってしまいますが、例えば、日米地位協定等の話を授業などですると、この問題の本質の1つが主権の侵害であることに気づく人は少ないですし、自分たちの主権が侵害されていることに対し憤る人も少ないのが実情です。僕は思います。日本の人は、自己決定権の大切さ、もとより国民主権であること、つまり、主権が国民にあることの大事さにどれほどの人が意識と理解をしているのだろうかと…。
 一方で、もう1つの心配事は、グローバル化による抑圧によって引き出される国民の対抗意識が、単純に感情の吹き上がりに結びつけられ、ナショナリスティックな全体主義とならなければよいなと思います。それにしても、日本の人の主権意識の低さはどうしてなんだろうと思い、これは主体の問題とも重なるな~、と一度整理し考える必要があると思っています。長くなったので、今回はここまで…。

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「自律」と「自由」

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 このところ授業で、「自律」「自由」の話をする機会が何度かありました。「自律」も「自由」も欧米由来の概念のため、 まずは、近代以降の欧米社会における「自律」「自由」のグランドセオリーの1つとして、やはりカント先生の考えを紹介することから始めました。それで、カント先生は、その啓蒙に関連する著作の中で僕流の解釈では、自由と自律の関係について、大体、次のようなことを言っていらっしゃいます。「自由とは、啓蒙により生起する悟性によって獲得された自律的主体意識による道徳的行為で実現されるもの…。」。まぁ、ポイントは3つぐらいあって、自由の意識は元々、皆持っているのだけれど意識されていないので、まずは啓蒙(教育)などによって隠されてしまっている意識を引き出す。そして、自由は、自律的な主体意識による道徳的行為で実現されるもの。3つ目として、肝心なポイントは、自由の意識の基になるものである自律的主体意識と、それによる道徳的行為は、超自我的なものとして全ての人に備わっているものだということです。

 あっ、そうそう、そもそもなんで「自律」とか「自由」とかという話になったのかというと、僕が実践している教育の柱(理念)が、「自由」「自律」「平和」なので、僕が考えている「自由」とか、「自律」とか、「平和」の意味とは何なのかという説明の流れで、詳しく話すことになったのです。 で話しを戻して、カント先生の話を手がかりにして、もう少し詳しい話をしていくと、まず、「自律的主体」という点についてです。ここで言う主体による自律を考えるとき、注意が必要なのは、やはり「主体」ということです。今までのブログなどでの話からも気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、どうやら「主体」には2通りあることが予想されます。1つの「主体」は、人が国家的な教育などによってその意識を超自我化され「主体」と思わされているもの。そして、もう1つの「主体」は、人間が生きていくために本性的に身につけているはずの本能的な意識。本文では、前者の主体による自律を「国家的主体自律」と呼び、後者の主体による自律を「個人的主体自律」というように分けて呼びたいと思います。
 おそらく、近代以降のヨーロッパ社会などにおける「自律」は、「国家的主体自律」を無意識的(中心的)に指していると思われます。その理由は、簡単に言えば、近代以降の特にヨーロッパでは、既に国家があり、そこで国家的教育(啓蒙)などによって、国民が作られていた(主体化/規律化)からです。ゆえに、個々人の自然権的な意味での主体の存在は、かなり紛れてしまったと言えるでしょう。ちなみに、僕が目指している教育は、「個人的主体自律」であるところの「自律」を、保証実現しようとしているのは言うまでもありません。

 それで、前述したような「自律」による「自由」ということになるのですが、ゆえに、「自由」も大きく分け、2つの「自由」があるということになる訳です。まずは、「国家的主体自律」であるところの「自律」によって実現される「自由」です。簡単に言えば、「政治への自由」ということになります。この「自由」とは、国家の価値観が反映された「自由」で、国家の存在(その国の存在規定/憲法など)によって保証された「自由」ということになります。具体的に言えば、「アメリカの自由」であり、イギリス・フランス、はたまた中国の自由ということになります。前述したように、近代以降の世界では、「自由」というと、多くの人が国家に属して生活しているので、「自由」と言えば、国家的主体自律による「自由」が唯一の「自由」であると思わされている節はあります。
 
 一方、「個人的主体自律」による「自律」で実現される「自由」とは、国家という枠組みの中で言えば、そもそも、全ての人間に保証されている「自由」で、基本的人権や生存権等に属している「自由」ということになるでしょう。この「自由」をあえて表現すれば、「自然からの自由」という感じでしょうか。しかしながら、こちらの「自由」においても、近代以降の世界においては、既に憲法のような法によって規定されている国家内での「自由」となってしまうので、法ありきの視点から見れば、この「自由」においても「政治への自由」に回収されてしまう傾向は強いと言わざるを得ません。逆に言えば、この「自然からの自由」を獲得するには、その自由を保障しているであろう国家のあり樣が、重要な要素になることにお気づきだと思います。

 このように、前者の「自由」であれ、後者の「自由」であれ、近代以降の国家においては、その自由は、国家内自由の傾向が強いために、最終的な獲得自由は、「政治への自由」となってしまうのですが、それゆえに、憲法による国家規定が相当に重要となる訳です。例えば、日本の場合は、非軍事国家ですので、日本における自由とは、それが政治への自由であったとしても、その自由は、軍事によって確保される自由ではないということになり、他の、特に欧米諸国の自由とは、その前提から違うということになります。
 このことは、こと教育の分野にとっては、非常に重要な前提となります。僕の場合は、非軍事によって規定をされている国家内において、個人的自律主体による自由の獲得を目指す教育を行っていて、その方法としてディアローグ的な対話による学習を重視しています。細かい説明はしませんが、その視界には、「自然からの自由」、すなわち、僕流に言えば、「学ぶ自由」(生きるために学ぶ)の獲得が入っており、ダイレクトに真の他者、つまり、「イノチ」の存在の重要性を理解するという目的を明らかにしているということになります。

 ちょっと込み入った話になってきてしまったので、「自律」「自由」の話はここらへんにして、「平和」についての話は、また、機会があるときでもしましょう。それでは、また。(^^)/

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戦争を考える

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 まず、単純な話ではあるのですが、僕は戦争は絶対に嫌なのです。日本のテレビや映画の、特に、昭和以降をテーマとしたドラマなどの場合、その中では必ず先の戦争に関係するエピソードが差し挟まれます。場合によっては、そのドラマの柱となる要素である場合もしばしばあります。そのように表現された日本の過去の体験の多くが実際に起きたことだとすれば、戦争は、人々の大事なものをいとも簡単に奪っていきました。人々がふつうに暮らしていくことを破壊していく戦争という事態は、心の底から僕は嫌なのです。

 しかしながら、近代以降の世界の歴史を振り返れば、人類の歴史は戦争の歴史と言ってもよいと思います。特に、世界の経済動向と相関させれば、ここでも何度も紹介をしているように、世界は、〈バブル→恐慌→戦争〉というルーティンを変えてはいません。そして、既に人類は何度か経験をしてきた大戦が、国民をも総動員するような全体的な戦争であったことを知っているはずです。別の言い方をすれば、近代以降の戦争の多くが、国民の協力がなければ遂行できなかった総力戦であったということです。
 先の戦争では、国民は権力側にメディアや教育などを使い騙され、知らず知らずのうちに協力をさせられてしまったんだという話が聞こえてきます。時の為政者たちが、個々の利益を中心とした経済的な発展を確保するために、政治と癒着し発展のために利用価値の高い国民を作ることを目的とした政策をもとにして、その実現のための装置としメディアや教育を活用した結果というか成果が現れたという事実も、確かに否定することはできないと思います。とはいえ、例えば、開戦当時の日本の一般的な人々の手記などを読むと、その多くのものが、戦争を行うことにしかたが無いというか、むしろ賛同しているかのような心情を書き残しています。なぜ、そんな心情と人々はなったのか…。
 人々の心情だけに絞って当時の状況を見てみると、多くの人が生き辛い世の中であると思っていたふしはあります。人々が生き辛いと思う社会的な背景は、やはり、未来に希望が持てない時だと思います。未来に希望が持てない世の中だから、何かの契機によってリセットしようとするのか…。それとも、特に、経済的(物質的)な発展が滞っているがゆえに、未来に希望が持てなくなっているのか…。欧米型の近代社会を模倣するようになってからの日本は、おそらく後者の傾向は強いと思います。つまり、近代以降の日本社会は、経済的な発展をすることが国民も含めて、社会のしあわせというか未来を保証するものだということを前提としているような気がします。こうした前提があることは、自身の利益を拡大させようと目論む少数の権力者からしても都合のよいものだと言えるでしょう。例えば、市場の限界や技術革新の後退などによって、発展の限界が見えてきたとき、戦争などによって全てを一度リセットし、再発展を目指す方法は効率がよさそうに見えます。ただ、近代の戦争は、先にも述べたように総力戦の形をなしますから、国民の協力は不可欠になります。ゆえに、日頃から、〈経済的な発展の停滞=生き辛い〉という意識を国民に埋め込み、それを打開するためには、戦争もいたしかたないという意識を作っていたのではないでしょうか。

 ただ残念なことに、こうした近代以降の社会の構造は、資本主義的な社会構造を土台として経済的な発展を目指す限りは、オートマチックな流れであり、そのことは、資本主義の家元である欧米の科学者たちも指摘をするところではあります。で、おそらく、リセットをして再スタートするという機能においては、戦争の勝ち負けは関係ないということです。リセットして市場の線引きを変えたり、新たな技術革新の契機にしたりすること自体が重要なわけです。単に貨幣を獲得することを目的とする経済的発展を目指しているかぎりは、こうしたルーティンは終わることなく繰り返されることでしょう。
 さて、そこで現在の日本です。戦後の装置は全て機能通りに動き続け、資本主義社会も機能通りに滞り、国民たちの生き辛いという心情も予定通りに醸成され、ここまでのところ近代以降の歴史のリプレイを見せられているかのようです。他の国のように、自らが戦争などによるリセットボタンには、幸いなことに強力な安全装置がかかってたがゆえに手をかけてはいません。もう既に、その安全装置は解除されたとする向きもありますが、安全装置としての憲法9条が実質無効化されれば、形はともあれ戦争という装置は自動的に稼働し出し、国民の多くは生き辛さを解消するためには仕方が無いと抗うことなく、その流れにのまれていくことになるのではないか…。

 こうした状況を鑑みるに、おそらく、私たちはこのような流れに対して、意識的にストップをかけるとか、代案を提示し実行するとかしないかぎりは飲み込まれる…。あえて言えば、正気を保つことのたいへんさ…、そんなことをしみじみ思う今日この頃です。ともかく、僕、戦争は絶対に嫌なんです…。

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遊泳注意!

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 最近、批判をすることが、何か悪いことのように言われる場合が多い気がします。まったく単純な話ですが、批判=否定ではありません。ましてや、政治に関係する世界などでは、批判がなければ政治とは言えないでしょう。いつ頃から、批判することが疎まれる風潮になったのかなぁ~、と考えてみました。ただ、最近疎まれる批判とは、自分たちの考えや想いにそぐわない考えや意見を持つ人々からの、主張や意見全般を指しているような傾向が強いと思われます。
 ちょっと遠回りな話しになりますが、2つの視点から最近のこうした風潮を考えてみたいと思います。まず1つの視点は、日常生活の場からです。日常生活と言っても僕の場合は、若者たちと対話をするというのが、日常の生活の中における中心となります。そうした場において、ここ何年かの間で感じることは、いわゆる日常の雑談とかという場ではなく、何らかのテーマを決めた議論などの場においても、厳密に言えば、批判というのではなく意見と言った方がよいかもしれませんが、相手というか、誰かの意見に対する批判というのは、あまり聞かなくなりました。
 そうした議論的な場においても、まずは相手を批判するような意見は、まったく出ません。確かに、日常の生活の場において、誰からか面と向かって批判をされれば、言われた方は胸が痛くなるでしょうし、言った方との人間関係もギスギスしたものが残ったりするでしょう。だから、人間関係の調節方法として、よほど親密な関係を望まないかぎりは、そうした批判を言い合えるような関係性にまで踏み込まないのがふつうではありますが…。意見を言い合うことを目的するような場においても、なかなか、相手を批判するような意見は出なくなりました。こうした状況をよく言えば、日本の特に新しい世代は、相手の気持ちをおもんばかり、相手が傷つくであろう言葉は差し控えるというやさしい気持ちの醸成の結果であると、考えることができるかもしれません。そのことがいいことなのか、悪いことのなのかの判断は先送りして、もう1つの視点からこうした状況を見てみます。
 もう1つの視点は、やはり、政治的な領域における視点です。こうした話をするときは、以前にも紹介したように、政治とは何かという話からしなくてはいけなくなるのですが、長くなるので、ウェーバー先生の主張を援用しつつ僕流に言わせてもらえば、(主体的)に表現するものは全て政治性を孕むとします。つまり、生活全般は政治性から切り離すことができないということです。とすれば、政治とは生活全般そのものということなり、生きていく上で欠かすことできない要素の1つとなります。その政治の中心、特に近代以降の民主的な政治に欠かすことのできないのが、自由にできる議論であり、その手法の1つとしての批判であり、批判の精神であったはずです。逆に言えば、自由に批判し合える環境を保証していくことが、近代民主主義の本懐であったはずです。さらに言えば、このことは、民主的な生活圏を維持していくための国民側のむしろ権利であり、自由な批判の場がなくなることは、民主的な社会の後退を意味するものだと思われます。したがって、どこかでさし聴いた「批判なき政治」なんて、そもそも、それでは民主政治と言えません。それは、民主国家の放棄かつ独裁国家宣言みたいなものです。

 なんとなくまとめます。大事なポイントは2つあるような気がします。1つは、ここでも何度も言いましたが、大きな権力を持つ、例えば政府だとか、為政者側が国民を批判することと、国民が政府などを批判することは、近代の民主的な国民国家においては、その立場の前提から違うのですから、意味がまったく違うということ。当然、国民から政府に対する批判の自由はきちんと権利として保証されなければいけません。むしろ、政府に対する健全な批判は、民主国家であることの証明となるでしょう。
 そして、もう1つのポイント、こちらの方が今回の話しの肝かもしれません。それは、国家というか、政府は批判多き国民を嫌うということです。基本、為政者側は国家や政府に従順な国民を作ろうとします。最近の日本では、政府は国民が主権在民である意識を持つことを嫌っているように感じます。というか、時々の政府が国民の持つ権力に対する批判的精神を希薄にするために、様々な施策を行ってきて、その成果が実りつつあるということなのかもしれません。証拠に、批判を嫌う人々の主張の多くが、無意識的というか意識的にというか、本来であれば権力を持つ者と持たぬ国民の立場は非対称的であるはずなのに、あたかも、権力者であろうが、ふつうの国民であろうが、同じ立場であると、例えば、基本的人権などを持ち出し、国民が権力者を批判するのを批判するわけです。自身の非対称性は健忘したか、隠蔽した上で、権力者側の代弁者のような振る舞いをふつうの国民がするようになってきています。これでは、「批判なき国民」を作ろうとしている権力者側の思うつぼです。
 ということで、僕としては、多くの人々が健全な批判精神を、特に生活世界の中に取り戻してほしいと願うのでした。

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加担はしたくないのです。

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 6月23日が近づくと、自然と若者たちに沖縄の話しをする機会が多くなります。いろいろな話しをするのですが、沖縄の人々が、基地の存在を反対する理由の1つとして、市民を殺す戦争に加担し続けるのは嫌だ、というのがあります。自身も戦争による実際を経験してきた沖縄の人々、自分たちの故郷にある基地から戦争がある度に、市民を殺戮するための機械や人が派遣されていく…。そうした基地の存在を許し続けることが、ある意味で、そんな戦争遂行に自分たちも加担し続けているのではないかと、自責の念を抱くことに繫がるのは、人としてごくごくふつうの意識だと思います。多くの日本の人々が、こうしたふつうの気持ちを失ってしまったとは、あまり考えたくはないのですが…。

 実は、僕が教育・社会的分野で活動している原動力の1つとして、加担したくないという気持ちがあります。どんなことに加担したくないのかと言えば、それは自身の生命も含め、他者のイノチを奪ったり、奪わせたりすることに加担したくないというものです。確かに、特に人間は身勝手で、自身が生きていくためには、多くの生き物のイノチを奪いながら生きてしまっています。さらには、細分化された社会の中では、自分が何気なくした行動が原因で、遠くのどこかのイノチを奪ってしまっていることも多くあるでしょう。
 それでも僕の意識の中では、極力イノチを奪うことはしたくない、特に、人間が人間自身の都合によって作り出してしまった、例えば、貨幣の利益などを守るために起こす戦争などという行為は、もしくはそこに繋がるようなことは、無くしていきたいと常々思っているのです。おそらく、戦争という行為は、自然の力による破壊とは違い、人間自身が作り出した破壊であるいじょうは、人間による働きかけにより無くすことができるはずだと信じています。貨幣の獲得や保持を目的として、嘘の大義を掲げつつ、人のイノチも奪い、自然も破壊し、全てのものの存在の根本として大事な生命一般の根拠をも断絶させるような行為に、自身が加担したくはないし、多くの人々、特に子どもや若者たちには、加担させたくないと思うわけです。大きなお世話なのかもしれませんが…。
 逆に言えば、自分のある考えや行動が、イノチを奪うことに手を貸しているのを知らないのだとしたら、それは無知だったとは言え、人間の驕り以外の何ものでもないと思うのです。

 しかし一方で、最近はそんな僕の想いとは裏腹に、近代以降の人間世界における戦争のような事象は、勝つとか負けるとかは関係なく、定期的に行き詰まる経済的発展を解消するためのリセット機能として、システムに織り込まれている(プログラム)ものなのではないかと思ってしまいます。つまり、発展を第一と考えた場合、戦争という機能は不可避なもので、それが前提とすれば、その他のサブシステムは、その機能の作動正当化のために準備され使われるようになると言うわけです。そうした場合、戦争などというプログラムを正当的に作動させるには、上述したような人間の本性としての例えば、イノチを剥奪したくないというような内発的な情動は、やっかいなものになることが予想されます。特に、呵責の念のもととなるような意識は意図的に隠蔽させることになるでしょう。簡単に言えば、「自分たちが生きていくためにはしょうがない」と、正当化の意識を上塗りし続けることになり、その装置の1つが、教育だったりすると思うのです。

 ゆえに、とりあえず僕の活動フィールドについて言えば、鉄人28号のリモコンではありませんが、誰がどういう考えに基づいて、教育というシステムを稼働させるのか、相当に大事なことになるわけで、どうにかして取り戻す、もしくは、さらに上書きするプログラムを既成のシステムの中に埋め込むか、そんな闘いを日々しているつもりなのですけれど…。人々の貨幣への欲望を原動力として、自動的に稼働し、サブプログラムを含め、再増構築するようにプログラミングされている既存のシステムは巨大でかつ巧妙であると、言わざるを得ません。まぁ、僕の場合は、同じ欲望でも「学びの欲望」を原動力としているので、簡単には止まらないですけどね。(^_^)v

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不可能なもの

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 僕の活動フィールド1つである教育の分野において、僕が注目し続けていることが、「教育不可能性」です。教育というゲームに参加するためのコードが、「教育可能性」であることは、多くの人が認め理解するところだと思います。すなわち、教育をすれば、立派な人間になれるはずであるということです。さしずめ資本主義社会的な視点から言えば、たくさんのお金が儲けられる人になるということです。そうした教育の世界において、僕ははなから、「教育不可能性」に目が奪われる人でした。「教育不可能性」とは、人は教育できない、そもそも持っている素晴らしい資質があるはずだというもので、僕が考える教育とは、そうしたその人ならではの持ち味や才能が発揮できていないのだとしたら、それを阻害しているものを取り除き、そして引き出すものです。
 教育というシステムが、歴史的な概念、すなわち人間が作り出したものであるいじょう、システムの中にある不可能性に注目をすることはとても重要なことです。ゲーデルの不完全性定理を持ち出すまでもなく、パーフェクトに機能しているように見えるシステムであればあるほど、そのシステムは不完全な部分を必ず含んでいることになります。こうした傾向は、何も教育というシステムだけではありません。民主主義というシステムであれ、宇宙というシステムであれ同様です。

 さて、こうしたシステムの中に含まれる不完全性であるとか、不確定性などに注目をして、そうした事象の存在を顕かにしていくことにはどういった意味があるのでしょうか?
 1つのシステムといいますか制度のようなものが完成をし、一度動き出せば、そのシステム内においては、単一的なコード(規則)に則り秩序が構築されていきます。言い方を換えれば、1つの価値観を前提として階層的な秩序が作られていくことになります。「教育可能性」で言えば、貨幣を獲得できる能力を多く身につけた者ほど、その階層の上位を占めることになります。そうした中で、あえてそのシステムが持つであろう矛盾している部分、すなわち不完全な部分を指摘するということは、そのシステム内において自明だと思われている価値観などが、決して全てに適用されるものではないということを証明することになるわけです。意味的には、180度違うものも存在しうることの証明にもなるわけです。そのことは、今まで築いてきた階層秩序的な価値観を転倒させるものとなるのです。 
 例えば、学校というシステムが、必ず通うものであるというコードによって運営されているとします。なので、ふつうは休まず通ったり、遠くからでも通ってきたりする姿勢というか熱意が奨励され賞賛されます。そこに、不登校をする者が現れたとします。すると、学校とは必ず通うものであるという前提的コードが崩れます。さらに、積極的に登校しないという意思表示は、そもそもの学校や教育の意味や目的、そして学ぶことの本質などを問わざるを得ない状況を作りだすことになります。つまり、価値観の転換、もしくは、拡張を促すことになるわけです。こうした行為が、今までにあった社会観や世界観の変革の契機になりうることを意味しているのです。

 このような行為のことを、デリダは脱構築と呼びました。逆に言えば、あるシステムや構造の中に、矛盾を孕む不完全や不確定な部分があることが見つけられるのであえば、そのシステムや構造は脱構築可能であるということになります。すなわち、脱構築的な行為をすることによって、そのシステムや構造の変革を促すことが可能であるということになります。

 今、僕たちの国では、様々なシステムにおいてそのほころびが目立つようになってきました。その事実を曝き続けることは、まさにそのシステムを変革させるための脱構築的行為となるのですが…。一方で、そうしたシステムを確立したことによって利益を獲得している者たちは、なんとしてでも、自分たちの利潤を生みだすそうしたシステムの維持延命に力を注ぐことになります。多くの場合はむしろそれがふつうですが、もし、政権側がそうした利益の恩恵を受けている者たちの代表や自身たちで構成されている場合は、当然のように不完全性を曝く者たちを排除し、さらには彼らを再コード化し回収(再領土化)するための政治力を強化することになるでしょう。

 今週、ちょうど若者たちとの対話の中で、少子化対策の話しが出ました。歴史が証明している事実ではありますが、未来が明るく、将来に夢が持て安心安全に暮らせることが保障されていれば自然と子どもの数は増え、人口も増えます。今、まさにそうではないということは、国民の多くが未来に対して大きな不安を持っているということになります。こうした事象もある意味では、社会システムの中にある不完全性の顕在化であり、不安があることを曝き続けるということは、社会の価値観の変換を促すことに繋がると思われます。小さいことかもしれませんが、声を上げ続けることの大切さを思い続ける日々です。不可能性・不完全性・不確実性に気づくのは、いつの世も少数派なので…。

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流れを変える

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 先日のブログで、日本で起きている「イジメ」の構造について少し話をしました。「イジメ」という事象だけではなく、現代社会のいろいろな所で発生している事象は、一見個人の意識によって引き起こされているかのように見えることが多いのですが、実際は、その多くが、社会のシステムによる影響によって引き起こされていると言えます。したがって、そうした事象に対して、個人の力によって対処するには、やはり限界があります。
 既に稼働しているシステムにおいて、そうした特に、人間にとって不利益なことが発生しないよう制御するために、そのシステムの利用年数の長い人たち、例えば、日本の先輩格であろう先進諸国と言われる欧米の国々では、個人の力では止めることができないシステムによる抑圧傾向に対しては、同様のシステム(法の力)によって制御するようにできています。ゆえに、近代立憲主義や三権分立の原則は近代国家にとっては重要事項となるのです。ですから、本来であれば、システムの暴走を防ぐための対抗システムを考慮すべきであったとしても、決して、為政者側の権力強化を促すようなシステムの構築を国民側は安易には許してはいけないのですが…。

 そうした近代以降、日本をはじめとした多くの国が採用したシステムの1つが資本主義というシステムです。このシステム発展のためのポイントは、今までに何度か紹介しましたように、「新市場の開拓」と「イノベーション」でした。そして、それらを実現させる原動力となるものが、人々の「欲望」、特に、「貨幣への欲望」でした。日本をはじめとする資本主義というシステムを採用した国々は、そうした発展のための目標を達成すべく無批判的にと言いますか、無反省的に言いますか、ある意味で、一方的と言いますか、自動的にとでも言いましょうか、とにかく、貪欲に突き進んできました。
 発展のためのこの両輪は、競争し合う強力なライバルのような関係でもあります。どちらにしても、地球というような時空的には有限な場所であるかぎりでは、拡張は一巡というか、行き渡ってしまえば、今度は、否応なしに細分化への道を進むことになるわけです。とにかく、細かくすることで、市場などを増やすのです。電話などがいい例です。その昔は、一家に1台だった電話が、今や携帯・スマホということで1人に1台となったわけで、4人家族が全員持っていれば、仮定的には市場は4倍に増え、それを実現させたのが技術的なイノベーションとなるのです。第二次世界大戦後、世界にまれに見る急速な消費文化社会化を達成した日本は、そうした意味では、まさに、世界に先ゆく細分化(個体化)社会となったのです。

 さてさて、そういった個体化社会が引き起こす現象は、何も経済発展的な現象だけではありません。同様に、人々の精神も細分化させていくことになるのです。簡単に言えば、分裂化ということです。否応なしに、人々の心は分裂していくことになるのです。「精神の疎外化」が起きるということです。ドゥルーズとガタリは以下のように述べています。

「資本主義は、脱領土化の運動と切り離せないものであるが、この運動を作為的人工的な再領土化によって払いのける。資本主義は、大地的そして専制君主的、神話的そして悲劇的表象の廃墟の上に建設されるが、またこれらの諸表象を資本のイメージという資格で、自分に役立つように、別の形態で再建するのである。マルクスは、次のようにすべてを要約している。主観的抽象的本質が資本主義によって発見されるとしても、それは新たに鎖につながれ疎外される。」(ドゥルーズ=ガタリ、宇野邦一訳『アンチ・オイディプス 下 資本主義と分裂症』河出書房新社、164頁)

 と、そうならざるを得ないので、精神の分裂化などを防ぐためにも、芸術だとか休息が必要なのですが、欧米にあるようなそうした文化までは、急速模倣の日本には根付かなかったということでしょうか…。また、一方で、細分化による社会や人々の精神の分裂化ということに対して、それもある意味では、資本主義というシステムを採用しているいじょうは、過去において繰り返し機能してきたことなのですが、細分化の次に来る動きが全体化とか群体化です。つまり、何かを契機として、細かくなってしまったものをリセットした上で再統合し、プレーンというか、デフォルトの状態に戻すという動きです。この流れは、近代資本主義というシステムにおいては、かなりオートマチックで、上述した二氏風に言えば、「脱領土化-再領土化」という表現になるかもしれません。

「部分対象としての欲望機械は、二つの全体化作用を蒙るのだ。そのひとつは、出発点の集合において不在や欠如として働く象徴的シニフィアンのもとで、社会体が欲望機械に構造的統一を与えるときの全体化である。もうひとつは、到達点の集合に欠如を分配し、『空胞化する』想像界のシニフィエによって、家族が欲望機械に人称的統一を強制するときの全体化である。」(ドゥルーズ=ガタリ、宇野邦一訳『アンチ・オイディプス 下 資本主義と分裂症』河出書房新社、173頁)

 当システムにおいては、何もしなければ自動的にこうした流れを繰り返すということで、以前から話している〈バブル-恐慌-戦争〉という流れも、このような機能の1つの実際であると言えるでしょう。どちらにしても、戦後の日本は、発展という言葉のもと細分化(分裂化)が急速に進み、かつ、そうしたことで発生するであろう弊害に対する備えの意識も希薄なままに現在に至っていると言えると思います。その証拠の1つが、「イジメ」のような現象となるのです。こんな視点から、共謀罪のことなどを見ると、上述したような流れ再現のための準備意識が、もう既に超自我化してしまっているがゆえに、当事者たちは、真の意味など知らぬままに、目の前の課題に対する有効な対処的方法であると思い込み、ことの本質に対して無自覚的、かつ自動的に準備を進めていってしまってるように見えてしまいます。再領土化(再回収)されないで、こうした動きに対して歯止めをかけるための様々な活動をしてきました…。まだまだ、力不足ということです。(>_<)

居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』
期日が少なくなってきました。よろしくお願いします。<(_ _)>

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