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「自律」と「自由」

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 このところ授業で、「自律」「自由」の話をする機会が何度かありました。「自律」も「自由」も欧米由来の概念のため、 まずは、近代以降の欧米社会における「自律」「自由」のグランドセオリーの1つとして、やはりカント先生の考えを紹介することから始めました。それで、カント先生は、その啓蒙に関連する著作の中で僕流の解釈では、自由と自律の関係について、大体、次のようなことを言っていらっしゃいます。「自由とは、啓蒙により生起する悟性によって獲得された自律的主体意識による道徳的行為で実現されるもの…。」。まぁ、ポイントは3つぐらいあって、自由の意識は元々、皆持っているのだけれど意識されていないので、まずは啓蒙(教育)などによって隠されてしまっている意識を引き出す。そして、自由は、自律的な主体意識による道徳的行為で実現されるもの。3つ目として、肝心なポイントは、自由の意識の基になるものである自律的主体意識と、それによる道徳的行為は、超自我的なものとして全ての人に備わっているものだということです。

 あっ、そうそう、そもそもなんで「自律」とか「自由」とかという話になったのかというと、僕が実践している教育の柱(理念)が、「自由」「自律」「平和」なので、僕が考えている「自由」とか、「自律」とか、「平和」の意味とは何なのかという説明の流れで、詳しく話すことになったのです。 で話しを戻して、カント先生の話を手がかりにして、もう少し詳しい話をしていくと、まず、「自律的主体」という点についてです。ここで言う主体による自律を考えるとき、注意が必要なのは、やはり「主体」ということです。今までのブログなどでの話からも気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、どうやら「主体」には2通りあることが予想されます。1つの「主体」は、人が国家的な教育などによってその意識を超自我化され「主体」と思わされているもの。そして、もう1つの「主体」は、人間が生きていくために本性的に身につけているはずの本能的な意識。本文では、前者の主体による自律を「国家的主体自律」と呼び、後者の主体による自律を「個人的主体自律」というように分けて呼びたいと思います。
 おそらく、近代以降のヨーロッパ社会などにおける「自律」は、「国家的主体自律」を無意識的(中心的)に指していると思われます。その理由は、簡単に言えば、近代以降の特にヨーロッパでは、既に国家があり、そこで国家的教育(啓蒙)などによって、国民が作られていた(主体化/規律化)からです。ゆえに、個々人の自然権的な意味での主体の存在は、かなり紛れてしまったと言えるでしょう。ちなみに、僕が目指している教育は、「個人的主体自律」であるところの「自律」を、保証実現しようとしているのは言うまでもありません。

 それで、前述したような「自律」による「自由」ということになるのですが、ゆえに、「自由」も大きく分け、2つの「自由」があるということになる訳です。まずは、「国家的主体自律」であるところの「自律」によって実現される「自由」です。簡単に言えば、「政治への自由」ということになります。この「自由」とは、国家の価値観が反映された「自由」で、国家の存在(その国の存在規定/憲法など)によって保証された「自由」ということになります。具体的に言えば、「アメリカの自由」であり、イギリス・フランス、はたまた中国の自由ということになります。前述したように、近代以降の世界では、「自由」というと、多くの人が国家に属して生活しているので、「自由」と言えば、国家的主体自律による「自由」が唯一の「自由」であると思わされている節はあります。
 
 一方、「個人的主体自律」による「自律」で実現される「自由」とは、国家という枠組みの中で言えば、そもそも、全ての人間に保証されている「自由」で、基本的人権や生存権等に属している「自由」ということになるでしょう。この「自由」をあえて表現すれば、「自然からの自由」という感じでしょうか。しかしながら、こちらの「自由」においても、近代以降の世界においては、既に憲法のような法によって規定されている国家内での「自由」となってしまうので、法ありきの視点から見れば、この「自由」においても「政治への自由」に回収されてしまう傾向は強いと言わざるを得ません。逆に言えば、この「自然からの自由」を獲得するには、その自由を保障しているであろう国家のあり樣が、重要な要素になることにお気づきだと思います。

 このように、前者の「自由」であれ、後者の「自由」であれ、近代以降の国家においては、その自由は、国家内自由の傾向が強いために、最終的な獲得自由は、「政治への自由」となってしまうのですが、それゆえに、憲法による国家規定が相当に重要となる訳です。例えば、日本の場合は、非軍事国家ですので、日本における自由とは、それが政治への自由であったとしても、その自由は、軍事によって確保される自由ではないということになり、他の、特に欧米諸国の自由とは、その前提から違うということになります。
 このことは、こと教育の分野にとっては、非常に重要な前提となります。僕の場合は、非軍事によって規定をされている国家内において、個人的自律主体による自由の獲得を目指す教育を行っていて、その方法としてディアローグ的な対話による学習を重視しています。細かい説明はしませんが、その視界には、「自然からの自由」、すなわち、僕流に言えば、「学ぶ自由」(生きるために学ぶ)の獲得が入っており、ダイレクトに真の他者、つまり、「イノチ」の存在の重要性を理解するという目的を明らかにしているということになります。

 ちょっと込み入った話になってきてしまったので、「自律」「自由」の話はここらへんにして、「平和」についての話は、また、機会があるときでもしましょう。それでは、また。(^^)/

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戦争を考える

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 まず、単純な話ではあるのですが、僕は戦争は絶対に嫌なのです。日本のテレビや映画の、特に、昭和以降をテーマとしたドラマなどの場合、その中では必ず先の戦争に関係するエピソードが差し挟まれます。場合によっては、そのドラマの柱となる要素である場合もしばしばあります。そのように表現された日本の過去の体験の多くが実際に起きたことだとすれば、戦争は、人々の大事なものをいとも簡単に奪っていきました。人々がふつうに暮らしていくことを破壊していく戦争という事態は、心の底から僕は嫌なのです。

 しかしながら、近代以降の世界の歴史を振り返れば、人類の歴史は戦争の歴史と言ってもよいと思います。特に、世界の経済動向と相関させれば、ここでも何度も紹介をしているように、世界は、〈バブル→恐慌→戦争〉というルーティンを変えてはいません。そして、既に人類は何度か経験をしてきた大戦が、国民をも総動員するような全体的な戦争であったことを知っているはずです。別の言い方をすれば、近代以降の戦争の多くが、国民の協力がなければ遂行できなかった総力戦であったということです。
 先の戦争では、国民は権力側にメディアや教育などを使い騙され、知らず知らずのうちに協力をさせられてしまったんだという話が聞こえてきます。時の為政者たちが、個々の利益を中心とした経済的な発展を確保するために、政治と癒着し発展のために利用価値の高い国民を作ることを目的とした政策をもとにして、その実現のための装置としメディアや教育を活用した結果というか成果が現れたという事実も、確かに否定することはできないと思います。とはいえ、例えば、開戦当時の日本の一般的な人々の手記などを読むと、その多くのものが、戦争を行うことにしかたが無いというか、むしろ賛同しているかのような心情を書き残しています。なぜ、そんな心情と人々はなったのか…。
 人々の心情だけに絞って当時の状況を見てみると、多くの人が生き辛い世の中であると思っていたふしはあります。人々が生き辛いと思う社会的な背景は、やはり、未来に希望が持てない時だと思います。未来に希望が持てない世の中だから、何かの契機によってリセットしようとするのか…。それとも、特に、経済的(物質的)な発展が滞っているがゆえに、未来に希望が持てなくなっているのか…。欧米型の近代社会を模倣するようになってからの日本は、おそらく後者の傾向は強いと思います。つまり、近代以降の日本社会は、経済的な発展をすることが国民も含めて、社会のしあわせというか未来を保証するものだということを前提としているような気がします。こうした前提があることは、自身の利益を拡大させようと目論む少数の権力者からしても都合のよいものだと言えるでしょう。例えば、市場の限界や技術革新の後退などによって、発展の限界が見えてきたとき、戦争などによって全てを一度リセットし、再発展を目指す方法は効率がよさそうに見えます。ただ、近代の戦争は、先にも述べたように総力戦の形をなしますから、国民の協力は不可欠になります。ゆえに、日頃から、〈経済的な発展の停滞=生き辛い〉という意識を国民に埋め込み、それを打開するためには、戦争もいたしかたないという意識を作っていたのではないでしょうか。

 ただ残念なことに、こうした近代以降の社会の構造は、資本主義的な社会構造を土台として経済的な発展を目指す限りは、オートマチックな流れであり、そのことは、資本主義の家元である欧米の科学者たちも指摘をするところではあります。で、おそらく、リセットをして再スタートするという機能においては、戦争の勝ち負けは関係ないということです。リセットして市場の線引きを変えたり、新たな技術革新の契機にしたりすること自体が重要なわけです。単に貨幣を獲得することを目的とする経済的発展を目指しているかぎりは、こうしたルーティンは終わることなく繰り返されることでしょう。
 さて、そこで現在の日本です。戦後の装置は全て機能通りに動き続け、資本主義社会も機能通りに滞り、国民たちの生き辛いという心情も予定通りに醸成され、ここまでのところ近代以降の歴史のリプレイを見せられているかのようです。他の国のように、自らが戦争などによるリセットボタンには、幸いなことに強力な安全装置がかかってたがゆえに手をかけてはいません。もう既に、その安全装置は解除されたとする向きもありますが、安全装置としての憲法9条が実質無効化されれば、形はともあれ戦争という装置は自動的に稼働し出し、国民の多くは生き辛さを解消するためには仕方が無いと抗うことなく、その流れにのまれていくことになるのではないか…。

 こうした状況を鑑みるに、おそらく、私たちはこのような流れに対して、意識的にストップをかけるとか、代案を提示し実行するとかしないかぎりは飲み込まれる…。あえて言えば、正気を保つことのたいへんさ…、そんなことをしみじみ思う今日この頃です。ともかく、僕、戦争は絶対に嫌なんです…。

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遊泳注意!

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 最近、批判をすることが、何か悪いことのように言われる場合が多い気がします。まったく単純な話ですが、批判=否定ではありません。ましてや、政治に関係する世界などでは、批判がなければ政治とは言えないでしょう。いつ頃から、批判することが疎まれる風潮になったのかなぁ~、と考えてみました。ただ、最近疎まれる批判とは、自分たちの考えや想いにそぐわない考えや意見を持つ人々からの、主張や意見全般を指しているような傾向が強いと思われます。
 ちょっと遠回りな話しになりますが、2つの視点から最近のこうした風潮を考えてみたいと思います。まず1つの視点は、日常生活の場からです。日常生活と言っても僕の場合は、若者たちと対話をするというのが、日常の生活の中における中心となります。そうした場において、ここ何年かの間で感じることは、いわゆる日常の雑談とかという場ではなく、何らかのテーマを決めた議論などの場においても、厳密に言えば、批判というのではなく意見と言った方がよいかもしれませんが、相手というか、誰かの意見に対する批判というのは、あまり聞かなくなりました。
 そうした議論的な場においても、まずは相手を批判するような意見は、まったく出ません。確かに、日常の生活の場において、誰からか面と向かって批判をされれば、言われた方は胸が痛くなるでしょうし、言った方との人間関係もギスギスしたものが残ったりするでしょう。だから、人間関係の調節方法として、よほど親密な関係を望まないかぎりは、そうした批判を言い合えるような関係性にまで踏み込まないのがふつうではありますが…。意見を言い合うことを目的するような場においても、なかなか、相手を批判するような意見は出なくなりました。こうした状況をよく言えば、日本の特に新しい世代は、相手の気持ちをおもんばかり、相手が傷つくであろう言葉は差し控えるというやさしい気持ちの醸成の結果であると、考えることができるかもしれません。そのことがいいことなのか、悪いことのなのかの判断は先送りして、もう1つの視点からこうした状況を見てみます。
 もう1つの視点は、やはり、政治的な領域における視点です。こうした話をするときは、以前にも紹介したように、政治とは何かという話からしなくてはいけなくなるのですが、長くなるので、ウェーバー先生の主張を援用しつつ僕流に言わせてもらえば、(主体的)に表現するものは全て政治性を孕むとします。つまり、生活全般は政治性から切り離すことができないということです。とすれば、政治とは生活全般そのものということなり、生きていく上で欠かすことできない要素の1つとなります。その政治の中心、特に近代以降の民主的な政治に欠かすことのできないのが、自由にできる議論であり、その手法の1つとしての批判であり、批判の精神であったはずです。逆に言えば、自由に批判し合える環境を保証していくことが、近代民主主義の本懐であったはずです。さらに言えば、このことは、民主的な生活圏を維持していくための国民側のむしろ権利であり、自由な批判の場がなくなることは、民主的な社会の後退を意味するものだと思われます。したがって、どこかでさし聴いた「批判なき政治」なんて、そもそも、それでは民主政治と言えません。それは、民主国家の放棄かつ独裁国家宣言みたいなものです。

 なんとなくまとめます。大事なポイントは2つあるような気がします。1つは、ここでも何度も言いましたが、大きな権力を持つ、例えば政府だとか、為政者側が国民を批判することと、国民が政府などを批判することは、近代の民主的な国民国家においては、その立場の前提から違うのですから、意味がまったく違うということ。当然、国民から政府に対する批判の自由はきちんと権利として保証されなければいけません。むしろ、政府に対する健全な批判は、民主国家であることの証明となるでしょう。
 そして、もう1つのポイント、こちらの方が今回の話しの肝かもしれません。それは、国家というか、政府は批判多き国民を嫌うということです。基本、為政者側は国家や政府に従順な国民を作ろうとします。最近の日本では、政府は国民が主権在民である意識を持つことを嫌っているように感じます。というか、時々の政府が国民の持つ権力に対する批判的精神を希薄にするために、様々な施策を行ってきて、その成果が実りつつあるということなのかもしれません。証拠に、批判を嫌う人々の主張の多くが、無意識的というか意識的にというか、本来であれば権力を持つ者と持たぬ国民の立場は非対称的であるはずなのに、あたかも、権力者であろうが、ふつうの国民であろうが、同じ立場であると、例えば、基本的人権などを持ち出し、国民が権力者を批判するのを批判するわけです。自身の非対称性は健忘したか、隠蔽した上で、権力者側の代弁者のような振る舞いをふつうの国民がするようになってきています。これでは、「批判なき国民」を作ろうとしている権力者側の思うつぼです。
 ということで、僕としては、多くの人々が健全な批判精神を、特に生活世界の中に取り戻してほしいと願うのでした。

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加担はしたくないのです。

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 6月23日が近づくと、自然と若者たちに沖縄の話しをする機会が多くなります。いろいろな話しをするのですが、沖縄の人々が、基地の存在を反対する理由の1つとして、市民を殺す戦争に加担し続けるのは嫌だ、というのがあります。自身も戦争による実際を経験してきた沖縄の人々、自分たちの故郷にある基地から戦争がある度に、市民を殺戮するための機械や人が派遣されていく…。そうした基地の存在を許し続けることが、ある意味で、そんな戦争遂行に自分たちも加担し続けているのではないかと、自責の念を抱くことに繫がるのは、人としてごくごくふつうの意識だと思います。多くの日本の人々が、こうしたふつうの気持ちを失ってしまったとは、あまり考えたくはないのですが…。

 実は、僕が教育・社会的分野で活動している原動力の1つとして、加担したくないという気持ちがあります。どんなことに加担したくないのかと言えば、それは自身の生命も含め、他者のイノチを奪ったり、奪わせたりすることに加担したくないというものです。確かに、特に人間は身勝手で、自身が生きていくためには、多くの生き物のイノチを奪いながら生きてしまっています。さらには、細分化された社会の中では、自分が何気なくした行動が原因で、遠くのどこかのイノチを奪ってしまっていることも多くあるでしょう。
 それでも僕の意識の中では、極力イノチを奪うことはしたくない、特に、人間が人間自身の都合によって作り出してしまった、例えば、貨幣の利益などを守るために起こす戦争などという行為は、もしくはそこに繋がるようなことは、無くしていきたいと常々思っているのです。おそらく、戦争という行為は、自然の力による破壊とは違い、人間自身が作り出した破壊であるいじょうは、人間による働きかけにより無くすことができるはずだと信じています。貨幣の獲得や保持を目的として、嘘の大義を掲げつつ、人のイノチも奪い、自然も破壊し、全てのものの存在の根本として大事な生命一般の根拠をも断絶させるような行為に、自身が加担したくはないし、多くの人々、特に子どもや若者たちには、加担させたくないと思うわけです。大きなお世話なのかもしれませんが…。
 逆に言えば、自分のある考えや行動が、イノチを奪うことに手を貸しているのを知らないのだとしたら、それは無知だったとは言え、人間の驕り以外の何ものでもないと思うのです。

 しかし一方で、最近はそんな僕の想いとは裏腹に、近代以降の人間世界における戦争のような事象は、勝つとか負けるとかは関係なく、定期的に行き詰まる経済的発展を解消するためのリセット機能として、システムに織り込まれている(プログラム)ものなのではないかと思ってしまいます。つまり、発展を第一と考えた場合、戦争という機能は不可避なもので、それが前提とすれば、その他のサブシステムは、その機能の作動正当化のために準備され使われるようになると言うわけです。そうした場合、戦争などというプログラムを正当的に作動させるには、上述したような人間の本性としての例えば、イノチを剥奪したくないというような内発的な情動は、やっかいなものになることが予想されます。特に、呵責の念のもととなるような意識は意図的に隠蔽させることになるでしょう。簡単に言えば、「自分たちが生きていくためにはしょうがない」と、正当化の意識を上塗りし続けることになり、その装置の1つが、教育だったりすると思うのです。

 ゆえに、とりあえず僕の活動フィールドについて言えば、鉄人28号のリモコンではありませんが、誰がどういう考えに基づいて、教育というシステムを稼働させるのか、相当に大事なことになるわけで、どうにかして取り戻す、もしくは、さらに上書きするプログラムを既成のシステムの中に埋め込むか、そんな闘いを日々しているつもりなのですけれど…。人々の貨幣への欲望を原動力として、自動的に稼働し、サブプログラムを含め、再増構築するようにプログラミングされている既存のシステムは巨大でかつ巧妙であると、言わざるを得ません。まぁ、僕の場合は、同じ欲望でも「学びの欲望」を原動力としているので、簡単には止まらないですけどね。(^_^)v

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不可能なもの

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 僕の活動フィールド1つである教育の分野において、僕が注目し続けていることが、「教育不可能性」です。教育というゲームに参加するためのコードが、「教育可能性」であることは、多くの人が認め理解するところだと思います。すなわち、教育をすれば、立派な人間になれるはずであるということです。さしずめ資本主義社会的な視点から言えば、たくさんのお金が儲けられる人になるということです。そうした教育の世界において、僕ははなから、「教育不可能性」に目が奪われる人でした。「教育不可能性」とは、人は教育できない、そもそも持っている素晴らしい資質があるはずだというもので、僕が考える教育とは、そうしたその人ならではの持ち味や才能が発揮できていないのだとしたら、それを阻害しているものを取り除き、そして引き出すものです。
 教育というシステムが、歴史的な概念、すなわち人間が作り出したものであるいじょう、システムの中にある不可能性に注目をすることはとても重要なことです。ゲーデルの不完全性定理を持ち出すまでもなく、パーフェクトに機能しているように見えるシステムであればあるほど、そのシステムは不完全な部分を必ず含んでいることになります。こうした傾向は、何も教育というシステムだけではありません。民主主義というシステムであれ、宇宙というシステムであれ同様です。

 さて、こうしたシステムの中に含まれる不完全性であるとか、不確定性などに注目をして、そうした事象の存在を顕かにしていくことにはどういった意味があるのでしょうか?
 1つのシステムといいますか制度のようなものが完成をし、一度動き出せば、そのシステム内においては、単一的なコード(規則)に則り秩序が構築されていきます。言い方を換えれば、1つの価値観を前提として階層的な秩序が作られていくことになります。「教育可能性」で言えば、貨幣を獲得できる能力を多く身につけた者ほど、その階層の上位を占めることになります。そうした中で、あえてそのシステムが持つであろう矛盾している部分、すなわち不完全な部分を指摘するということは、そのシステム内において自明だと思われている価値観などが、決して全てに適用されるものではないということを証明することになるわけです。意味的には、180度違うものも存在しうることの証明にもなるわけです。そのことは、今まで築いてきた階層秩序的な価値観を転倒させるものとなるのです。 
 例えば、学校というシステムが、必ず通うものであるというコードによって運営されているとします。なので、ふつうは休まず通ったり、遠くからでも通ってきたりする姿勢というか熱意が奨励され賞賛されます。そこに、不登校をする者が現れたとします。すると、学校とは必ず通うものであるという前提的コードが崩れます。さらに、積極的に登校しないという意思表示は、そもそもの学校や教育の意味や目的、そして学ぶことの本質などを問わざるを得ない状況を作りだすことになります。つまり、価値観の転換、もしくは、拡張を促すことになるわけです。こうした行為が、今までにあった社会観や世界観の変革の契機になりうることを意味しているのです。

 このような行為のことを、デリダは脱構築と呼びました。逆に言えば、あるシステムや構造の中に、矛盾を孕む不完全や不確定な部分があることが見つけられるのであえば、そのシステムや構造は脱構築可能であるということになります。すなわち、脱構築的な行為をすることによって、そのシステムや構造の変革を促すことが可能であるということになります。

 今、僕たちの国では、様々なシステムにおいてそのほころびが目立つようになってきました。その事実を曝き続けることは、まさにそのシステムを変革させるための脱構築的行為となるのですが…。一方で、そうしたシステムを確立したことによって利益を獲得している者たちは、なんとしてでも、自分たちの利潤を生みだすそうしたシステムの維持延命に力を注ぐことになります。多くの場合はむしろそれがふつうですが、もし、政権側がそうした利益の恩恵を受けている者たちの代表や自身たちで構成されている場合は、当然のように不完全性を曝く者たちを排除し、さらには彼らを再コード化し回収(再領土化)するための政治力を強化することになるでしょう。

 今週、ちょうど若者たちとの対話の中で、少子化対策の話しが出ました。歴史が証明している事実ではありますが、未来が明るく、将来に夢が持て安心安全に暮らせることが保障されていれば自然と子どもの数は増え、人口も増えます。今、まさにそうではないということは、国民の多くが未来に対して大きな不安を持っているということになります。こうした事象もある意味では、社会システムの中にある不完全性の顕在化であり、不安があることを曝き続けるということは、社会の価値観の変換を促すことに繋がると思われます。小さいことかもしれませんが、声を上げ続けることの大切さを思い続ける日々です。不可能性・不完全性・不確実性に気づくのは、いつの世も少数派なので…。

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流れを変える

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 先日のブログで、日本で起きている「イジメ」の構造について少し話をしました。「イジメ」という事象だけではなく、現代社会のいろいろな所で発生している事象は、一見個人の意識によって引き起こされているかのように見えることが多いのですが、実際は、その多くが、社会のシステムによる影響によって引き起こされていると言えます。したがって、そうした事象に対して、個人の力によって対処するには、やはり限界があります。
 既に稼働しているシステムにおいて、そうした特に、人間にとって不利益なことが発生しないよう制御するために、そのシステムの利用年数の長い人たち、例えば、日本の先輩格であろう先進諸国と言われる欧米の国々では、個人の力では止めることができないシステムによる抑圧傾向に対しては、同様のシステム(法の力)によって制御するようにできています。ゆえに、近代立憲主義や三権分立の原則は近代国家にとっては重要事項となるのです。ですから、本来であれば、システムの暴走を防ぐための対抗システムを考慮すべきであったとしても、決して、為政者側の権力強化を促すようなシステムの構築を国民側は安易には許してはいけないのですが…。

 そうした近代以降、日本をはじめとした多くの国が採用したシステムの1つが資本主義というシステムです。このシステム発展のためのポイントは、今までに何度か紹介しましたように、「新市場の開拓」と「イノベーション」でした。そして、それらを実現させる原動力となるものが、人々の「欲望」、特に、「貨幣への欲望」でした。日本をはじめとする資本主義というシステムを採用した国々は、そうした発展のための目標を達成すべく無批判的にと言いますか、無反省的に言いますか、ある意味で、一方的と言いますか、自動的にとでも言いましょうか、とにかく、貪欲に突き進んできました。
 発展のためのこの両輪は、競争し合う強力なライバルのような関係でもあります。どちらにしても、地球というような時空的には有限な場所であるかぎりでは、拡張は一巡というか、行き渡ってしまえば、今度は、否応なしに細分化への道を進むことになるわけです。とにかく、細かくすることで、市場などを増やすのです。電話などがいい例です。その昔は、一家に1台だった電話が、今や携帯・スマホということで1人に1台となったわけで、4人家族が全員持っていれば、仮定的には市場は4倍に増え、それを実現させたのが技術的なイノベーションとなるのです。第二次世界大戦後、世界にまれに見る急速な消費文化社会化を達成した日本は、そうした意味では、まさに、世界に先ゆく細分化(個体化)社会となったのです。

 さてさて、そういった個体化社会が引き起こす現象は、何も経済発展的な現象だけではありません。同様に、人々の精神も細分化させていくことになるのです。簡単に言えば、分裂化ということです。否応なしに、人々の心は分裂していくことになるのです。「精神の疎外化」が起きるということです。ドゥルーズとガタリは以下のように述べています。

「資本主義は、脱領土化の運動と切り離せないものであるが、この運動を作為的人工的な再領土化によって払いのける。資本主義は、大地的そして専制君主的、神話的そして悲劇的表象の廃墟の上に建設されるが、またこれらの諸表象を資本のイメージという資格で、自分に役立つように、別の形態で再建するのである。マルクスは、次のようにすべてを要約している。主観的抽象的本質が資本主義によって発見されるとしても、それは新たに鎖につながれ疎外される。」(ドゥルーズ=ガタリ、宇野邦一訳『アンチ・オイディプス 下 資本主義と分裂症』河出書房新社、164頁)

 と、そうならざるを得ないので、精神の分裂化などを防ぐためにも、芸術だとか休息が必要なのですが、欧米にあるようなそうした文化までは、急速模倣の日本には根付かなかったということでしょうか…。また、一方で、細分化による社会や人々の精神の分裂化ということに対して、それもある意味では、資本主義というシステムを採用しているいじょうは、過去において繰り返し機能してきたことなのですが、細分化の次に来る動きが全体化とか群体化です。つまり、何かを契機として、細かくなってしまったものをリセットした上で再統合し、プレーンというか、デフォルトの状態に戻すという動きです。この流れは、近代資本主義というシステムにおいては、かなりオートマチックで、上述した二氏風に言えば、「脱領土化-再領土化」という表現になるかもしれません。

「部分対象としての欲望機械は、二つの全体化作用を蒙るのだ。そのひとつは、出発点の集合において不在や欠如として働く象徴的シニフィアンのもとで、社会体が欲望機械に構造的統一を与えるときの全体化である。もうひとつは、到達点の集合に欠如を分配し、『空胞化する』想像界のシニフィエによって、家族が欲望機械に人称的統一を強制するときの全体化である。」(ドゥルーズ=ガタリ、宇野邦一訳『アンチ・オイディプス 下 資本主義と分裂症』河出書房新社、173頁)

 当システムにおいては、何もしなければ自動的にこうした流れを繰り返すということで、以前から話している〈バブル-恐慌-戦争〉という流れも、このような機能の1つの実際であると言えるでしょう。どちらにしても、戦後の日本は、発展という言葉のもと細分化(分裂化)が急速に進み、かつ、そうしたことで発生するであろう弊害に対する備えの意識も希薄なままに現在に至っていると言えると思います。その証拠の1つが、「イジメ」のような現象となるのです。こんな視点から、共謀罪のことなどを見ると、上述したような流れ再現のための準備意識が、もう既に超自我化してしまっているがゆえに、当事者たちは、真の意味など知らぬままに、目の前の課題に対する有効な対処的方法であると思い込み、ことの本質に対して無自覚的、かつ自動的に準備を進めていってしまってるように見えてしまいます。再領土化(再回収)されないで、こうした動きに対して歯止めをかけるための様々な活動をしてきました…。まだまだ、力不足ということです。(>_<)

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期日が少なくなってきました。よろしくお願いします。<(_ _)>

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再び、「イジメ」を考える

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 ここ2週間ほど、若者たちと「イジメ」のことや、「不登校」のことについて対話をしてきました。例えば、みんなの「イジメ」についての話しや主張を聴くと、いつもさかなクンさんの話を思いだします。彼は自分が中学生だった頃の体験を通じ、魚の世界のたとえ話を紹介します。

 メジナという魚を例にして、「メジナは、海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じ込めると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。」(朝日新聞 2006年12月2日)

 さかなクンさんの話は、たいへん示唆に富む話だと思います。イジメの話、特に、学校などという場において発生する「イジメ」という現象に対して、その解決というか対策として、多くの場合は、発生する事前であれ、事後であれ、いわば対処方法的な視点を中心としてイジメ対策なるものが語られます。確かに、緊急避難的な意味で、既に発生をしてしまっていることに対して速やかに対処を施すことは重要です。少し厳しい言い方になるかもしれませんが、実際、現在の日本の学校などで起きている「イジメ」という行為の多くが、犯罪的なものであることは明らかで、もしこれが欧米で起きるのであれば、法的処罰の対象となってもおかしくないと思われます。したがって、昔から僕が主張しているように、法的暴力には、法的暴力で対抗するしかないということです。

 このようにして、「イジメ」という現象に対して、その原動力となってしまう暴力には2つの種類があり、上で書いた法的暴力に対して、もう1つの暴力である彼らが人として持つであろう純粋(本性)な暴力についての対処方法については話しが長くなるので、ここでは喋りません。関心のある方は、僕の本でも読んでください。で、話を戻して、さかなクンさんの話を読んだとき、僕は、最初は、彼が言うところの水槽が学校なのかと思ったのですが…。最近の日本の状況、各地で起きている様々な社会事象(イジメ的な)を見るかぎりでは、どうやら、日本社会全体が水槽だったんだと気づかされました。考え方としては、社会が学校化したのか、それとも学校が社会化したのか…、そもそも、学校という場所がそうした役割を担わされているのか…。

 少なからず、こうした視点で、今一度、学校という場所で起きている「イジメ」という現象を見直すと、はっきりと言えることは2つあります。1つは、日本で発生している「イジメ」的な現象は、学校(構造的に、結果がより強力に吹き出す先端かもしれない。)を含め、社会から決して無くなることはない。言い換えれば、必ず生みだされ続ける。そして、もう1つは、既に、個人の責任とか個人の力では、解決しようのない事象であるということです。

 だとすれば、こうした事象を否応なく生みだし続ける社会の仕組みについて、しっかりと知る必要が出てくるわけのなのですが、ゆえに、僕などは、近現代資本主義の仕組みやら構造に関心が向き、マルクスなどが言う資本主義の、特に、人間の精神に与える影響について視線が注がれることになるわけなのです。そうした欧米などの思想や哲学を知れば知るほど分かることは、彼らは、発祥の地で長い歴史と経験があるだけに、こうした事態が社会に吹き出ることをその多くの者が予見しているし、それを防ぐために、対抗的な意味での法的暴力の強化(近代立憲主義)などをすすんで行っているわけなのですが…。未熟なというか、本来、価値観の違かった日本では、人々のそうした意識が弱く、というか、本当は、欧米的近代国家を模倣するのであれば、そこまで教育に織り込むべきだったと思うのですが…、先に、貨幣獲得第一主義となってしまったわけで…。結果として、社会の仕組みの結果、引き起こされている多くの問題事象も、個人の力や人間の情的(これも実際は、純粋な暴力の1つ)な力を持ってして、乗り越えさせようとしてしまっているわけです。

 ということで、ほんとうであれば、社会の仕組みや人々の価値観を変えないかぎり、「イジメ」のような現象はなくならないのです。でも、たぶん今の日本でそうした変革が直ぐに起きるかと言えば、それは期待薄です(教育の成果…)。あーぁ、なんかシニカルな方向にきてしまった…。これ以上続けているとどつぼにはまるので、いつものように強引にまとめて、でともかく、「イジメ」のような事態に対して、法的暴力で対抗する以外にはどうしたらよいのかと言えば、いじめっ子たちが追い込まれて、そうした行為を行っているのだとすれば、こちら側も同様の権利として、自分の生命の存在を脅かすような所から「逃げる」(昔、「逃散」という行為があったよ…。)という権利を行使してほしいと思うのです。当然、学ぶ権利の保障は、違う形できちんとしてもらったうえで…。でもそうか、やはり今の日本は、逃がさない社会なのかもね…、監視社会強化。(^^;)

「不登校」についての話は、また次回…。

※ 純粋な暴力は、生きるため(生命維持)に行使せざるを得ない暴力。そうした視点から見たら、人間がある状況に追い込まれて自己防衛のために本能的に行使するのだとすれば、生物機能的には正常に機能していると見られなくはない。

居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』<(_ _)>

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僕はいつでも片想い

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 僕はいつでも片想い…。

  私その日から あなたのとりこ 口には出せないどうして伝えよう 
  名前も知らない あなたへの One-sided Love~♪

 竹内まりやさんじゃないけれど、いつもこんな感じ…。
 僕の片想いは、なにも人だけじゃない。場所にも、モノにもコトにも気がつくといつも片想い…。片想いだからそうなるのか、それともそう想う傾向が強いから片想いとなってしまうのか…。そう想う傾向とは、若者たちには、ディアローグ的な対話を大切にしろと言っているのに、自身は、モノローグ的な対話が中心となる傾向が強いのです。本人は、よかれというか、人やモノやコトが崩壊するというか、降りかかるであろう危機を回避するためにはこうしなればいけないと、想うがゆえに考えるのだけれど…。それが、そうした傾向が強いだけに、自身とのモノローグの結果(内省的)であるだけに、それも深く濃く内省的な対話を重ねた結果、導き出された結論であるがゆえに、強く独我的なものとなってしまうのです。言い換えれば、独善的なものとなってしまうわけです。

 だから、そうした相手に対して、こんなに想っているのに、何も応えてくれないと勝手に思い、がっくりくることが多いわけです。でも、これは、僕が本性として持つものなのかもしれません。なので、こうした傾向はしょうがないとあきらめるようにしている今日この頃ではあるのですけれど…。

 まぁ、そう考えれば僕の片想い症候群はどうにか片がつくと言いますか、まさに抑制の効いた理性的な生き方となる訳です。しかし、ことはそうは簡単ではありません。やはり、僕はあるとき気づいてしまったんです。デカルトさんのように…。「我れ、想う故に我れあり」と…。これは、僕流の解釈ですけれど、デカルトさんは、そう考えている自身の想い自体が自身の本性的な想いなのかと疑ったわけで、自身が主体的に考えていると思っていた意識そのものが、既に他の何かによってすり込まれた意識なのではないかと疑えと言ったのです。

 つまり、僕が気づいたことは、どうやら想いというか、意識と考えられていることには、2つあるということ。1つは、ある後天的な外的作用によってすり込まれた、超自我化されてしまっているような、主体的な意識であると思い込まされてしまっているもの。そして、もう1つは真にというか、自然(本性)として涌き立ってくるものとしての意識というか想い。哲学的に言ったら、アプリオリな意識とでも言いましょうか…。そして問題は、僕の想いはどちらの意識から来るものなのかということなのです。
 ここからは、想像というか直観的なものです。自身が歳を取った結果、片想いの想いの結末を実際のシーンとして見る機会が多くなってきたのです。昔の直観は非科学的で論理的な説明がうまくできなかったのですが、時間をかけたことで帰納的に理解できるようになってきました。結論として、どうやら僕の片想いの想いは、本性的に未来を観える(捉える)がゆえに、危機回避機能として稼働しているぽいのです。なんだか、都市伝説のような話になってきました。だからと言って、僕の片想いは成就することはなく、多くのコト・モノは僕の想いとは違う方向へと向かうのです。あたかも、危機を迎入れるがごとく…。

 ここまで書いていて気づきました。僕の片想い症候群、自分ではディープなモノローグと考えていたけれど、これって究極の非対称性なんじゃないかと。つまり、究極なディアローグ的対話と言えるのじゃないかと…。そして、簡単には成就しないのですから、どこまでいっても両者の差異が延長されていく…。ありゃりゃ、差異の差延だ…。なんだか、自分の存在そのものが脱構築的。片想いをし続けることが代補の運動的。僕にとっての片想い症候群は、これが生きる原動力の1つになっているぽいです。世界や社会が、一層の分裂傾向を強める中、こうした意識が、僕の意識統合のための自己防衛機能であると思われます。と、自身の在り樣を正統化して終わります。んーっ、モノローグぽいな…。(>_<)

締め切りがせまってきました。
こちらも引き続き、よろしくお願いいたします。
居場所型BookCafe『STUDIO鎌倉第四次空間』
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大切なもの

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皆さん、お元気でしょうか?
僕は、元気です。

桜の季節も気がつくとアッという間に過ぎ、
今は、新緑の季節で裏の山々は、様々な緑で覆われています。

皆様ももうご存じかとは思いますが、21世紀の日本は、既に十分に豊かになり、一家に一台であった電話も、今では一人一人に一台となりました。また、テレビのようなモノも、何でもできるパソコンなる機械に変わりまして、ちょちょいのちょいという感じで、家にいながら世界のモノを手に入れることができます。本当に便利な世の中になりました。お金さえあれば、何でもできます。

世界の価値は、万国共通のお金というモノを基準として、いかにたくさんのお金を獲得することができるかによって決まります。

そのものに、どんなに想いが込められていようが、どんなに世界の真実が埋め込まれていようが、お金を生みださないかぎり無価値です…。少し前までは、所によっては、お金には換えることのできない大切な価値を優先する人々も存在していましたが、豊かになった今の日本では、そんな少数派の人々は、まったくいなくなってしまいました。

本当の価値も意味も分からない、ただただお金の亡者となった人々…。
おっと愚痴が過ぎました。豊かな世界は、パラダイスです。
お金さえあれば、何でもできます。
お金、第一、大万歳!

雨の多い季節が近づいてまいりました。どうぞ自愛ください。
僕は、しばらくの間、内省の生活へと隠ることにいたします。
それでは、皆さん、さようなら。


 という感じで、誰と言うわけではありませんが、急に手紙を書きたくなりました。鎌倉代書屋さん(僕は鎌倉代教屋ですが…)ドラマに影響を受けたというところが、真相ではあります…。でも、このところ、確かに、「価値」ということをよく考えます。もう長らく続く資本主義の社会では、その昔から、貨幣への欲望を満たすものが大いに価値があるとされ、何かを表現したり世の中に働きかけるときも、まずは貨幣への変換能力ならびにそれに付随するコスト計算がその動機として優先されます。世界の歴史を眺めると、そうした視点が優先されたがゆえに、人類にとって不利益な出来事を引き出すことになった事例を多く見ることができます。

 それでも、世界には必ず貨幣的な価値ではない本当の価値を見いだすことができる人がいて、そんな人たちの自己犠牲によって、人類にとって大切な財産となるものが残されてきました。また、こうした真に価値があると思われるものの多くが、時間的な視点で見たとき、今日明日に直ぐにその価値を発揮するのではなく、何年かの長い時間をかけてその価値の正統性が証明されることが多いので、未来を見通してものを考えることができる人の存在も欠かせませんでした。

 と考え我が国の現況を振り返ると、何だかとても厳しく寂しくなります。今や、手紙にも書いたように、おそらくそれは、政策や教育の成果だとは思いますが、そんな人たちはまったくいなくなり、多くの人々は、明日明後日の生きるための貨幣を獲得するために悪戦苦闘を強いられています。結果として、貨幣的な価値はないが、犠牲を孕みつつも真に価値があるものを残そうなどいう奇特な人は我が国には、もはや皆無となったわけです。
 そもそも、真によいものにいわゆる貨幣中心主義的な付加価値を織り込もうすること自体がナンセンスだと思うのですが…。資本主義的な価値観の押しつけが行きすぎると、社会も人の精神もダメになることは明白です。したがって、健全な批判精神の1つであろう貨幣的な価値のないものにこそ価値があることを見出し、なんとか形にし残していこうとする心意気を意識的に守っていくことが大事だと、僕なんかは切に思うのです。そんな視点から考えると、やはり教育のシステムなどを前提から変革する必要があると思うのですが、教員養成の仕組み等も含めこうしたシステムを企画し運用する人自体が前述したような意識を持つ者たちのみとなっているというか、全てが自己増殖型の巨大な再生産システムとして稼働し続けているだけに、将来展望への厳しさは否定できないと思います。
 一方では、資本主義の原動力の1つであるイノベーションを担う人材等を嘱望しているのに、それらの育成・機会を自ら潰した上で、今まで通りで発展のためには戦争以外でのリセッション回復方法を提案していないところからも、まさに進歩のない繰り返しの世界を望んでいるのではないのかとさえ思えてきます。世の中の流れを換えることの出来ない無力な自分に、歯ぎしりな日々です。

 ことがある度に、そうしたものや人を拾い上げる力を持ち合わせていない僕は…。と嘆きながら、宝くじを買うのでした…。神様、僕にほんの少しでよいので、変革の力を…!結局、金なのか…、言語ゲーム…、我人生。 (>_<)

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ナショナルなもの

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 もう、だいぶ語りつくされたテーマではありますが…。最近の日本も、まさに、絵に書いたような節目的な社会状況を呈してきました…。グローバリゼーションとナショナリズムについては、いろいろな所で何度か話しているので重複してしまうのですが、繰り返し話し続けた方がいいような気がしているので、もう一度、少し書いておくことにします。

 まずは、資本主義というシステムの性格上、否応なしに繰り返されるグローバリゼーションとは、何であったのかということの再確認です。グローバル化なるものが、国境を越えて「人」「物」「お金」が動くことなのだとしたら、人類は既に何度か経験をしてきています。特に、近代資本主義の時代に入ってからは、その発展の原動力が「新市場開拓」と「イノベーション」であるいじょうは、その発展の原理から、グローバル化は避けては通れない道となっています。そうした視点から見たとき、今のところ世界は同じ歴史を繰り返していると言っていいでしょう。
 
 そしてより一層の資本主義的な発展を目論む世界、特に先進諸国は、否応なしにグローバル化を推し進めることになります。グローバル化を推し進めると、当然のように国内において、国内産業の衰退や失業等を引き起こします。所得の格差なども広がり、国民や業界団体からの反発も強まることでしょう。また、グローバル化が進めば、国境を飛び越えた市場化などが進むわけですから、市場の範囲を縛っていた国家という枠組みが邪魔になってきます。上述したことをまとめれば、グローバル化が進むと、民主主義国家内における少数派の、特に政治的な意見を無視せざるを得なくなるということ。言い換えれば、議会制民主主義を軽視する傾向が強まるということと、国家の枠組みを弱体化せざるを得なくなる、簡単に言えば、国家主権を弱めざるを得なくなるということです。

 そこで、90年代後半以降の日本の状況を具体的に見てみましょう。当然、より一層の資本主義的経済発展を目指す日本も、新自由主義的な政策をバックボーンとして、グローバル化を推し進めてきました。結果として、高度経済成長期をとうに終え曲がり角を曲がりきったところでの強力な資本主義政策の推進ですから、当然のように様々な分野において、そのひずみが顕在化していくことになります。例えば、地方における地域共同体の崩壊、すなわち、地域における自治権や自己決定権の剥奪、雇用の流動化、格差の拡大等です。強力な資本主義化が進めば進むほど、その性格上、様々な分野における社会構造上のいわば分裂がここ日本でも否応なしに進んでいます。こうした社会構造的な分裂傾向は、自殺者数の高止まりや差別社会化等、国民の精神をも分裂させつつあります。
 こうした避けることのできない状況は、政治の世界においても前述したような、議会制民主主義(近代立憲主義等)の軽視化や国家主権・国民主権の弱体化による基本的人権等の後退化などを引き起こしています。

 しかしながら、権力者側は、自分たちの持つ既得権益等を保持し続けるためには社会や国民精神の分裂化が進もうがおかまいなく、経済的発展を一層推し進めなくてはなりません。したがって、実際には分裂化の先延ばしでしかないとは思いますが、国家や国民精神の再統合のための策を講じることになります。発展による経済的利益が潤沢のときであれば、国家による所得の再分配等の施策を実行することで統合を図るところなのですが、分配するお金がない今は、お金をかけずに国家などの分裂を先延ばしするしか、方法がない状況になっているわけです。

 その方法の1つがナショナリズムなのです。本来のナショナリズムとは郷土愛のような、生まれ故郷などに対する純朴な愛情であったものが、国家再統合のためのツールの1つとして、まさに政治利用される傾向を強めているのです。政治的な意味でのナショナリズムは、強まるであろう保護主義的な傾向ともあいまって、今後に現れるであろう社会状況によっては、最終的に為政者たちが選択するかもしれない政策の正当化に利用されるというか、既にされてきました。その歴史的選択とは、戦争でリセットされることによる再市場化やイノベーションの再強化です。

 ということで、今だからこそナショナルなものに対しては、十分な注意が必要な時代だと言えるでしょう。人類は、今度こそ貨幣的な発展だけを優先するのではなく、精神的・意識的な発展をも大事にする選択をしてもらいたいものです。

〈居場所型BookCafe   
『STUDIO鎌倉第四次空間』〉

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